【翻訳】 スティーブン・テレス「アメリカは"クラジオクラシー"(Kludgeocracy)に陥っているのか?」(2013年1月26日)
本エントリはアメリカのジャーナリストであり政治アナリストでもあるエズラ・クライン氏によるスティーブン・テレス氏との対談記事記事 "Is America a 'kludgeocracy'?" の意訳・要約記事になります。
「クラッジ(kludge)」とは、本来異なった仕様用途のシステム同士が複雑に組み合わさることで、使用者に余計な負荷をかけてしまうようなシステムのことを指します。このクラッジはプログラム分野においては、あるシステムに生じた問題に対する応急処置(パッチ)が積み重なっていき、最終的にシステム全体が複雑怪奇なものになってしまうような『累積的なその場しのぎ』のことを指します。
そのため「クラジオクラシー(kludgeocracy)」は主にアメリカの政治システムにおいて、さまざまな制度が互いにパッチのような重なり方をしており、実際に行政サービスにアクセスする際に膨大な時間とストレスが申請者にかかってしまうような申請主義等の政治的複雑性を揶揄するタームとしてスティーブン・テレスにより提唱されました。
注意:訳者(未厨伯)の知識不足、技量不足により解説や本文等で誤った箇所がある可能性があります。お気づきの際は適宜ご指摘いただけますと幸いです。
また本エントリは一切収益化しておりません。
[以下本文]
ジョンズ・ホプキンス大学の政治学者であるスティーブン・テレスは、「アメリカの政治形態としてのクラジオクラシー(Kludgeocracy: The American Way of Policy)」にて、「国家のフロンティアがほぼ確定した今、今後のアメリカ政治の主要課題は、その規模よりもむしろ政府の複雑さについてのものになるだろう。」と論じている。そのため彼は、「オバマ政権の次の4年間、つまりは今後30年間のこの国の重要課題は、クラジオクラシー(Kludgeocracy)に対処することである。」と大胆な主張をしている。先週末、私はテレスとこのことについて言葉を交わした。
[以下対談内容]
エズラ・クライン:ではまず、クラジオクラシーの定義づけから始めましょう。あるプログラムや政策が、「クラッジ(Kludge)」と呼ばれるのはなぜでしょうか。
スティーブン・テレス:あるプログラムや政策において、解決しようとする課題の想定よりも、その政策メカニズム自体の方が大幅に複雑である時に「クラッジ(Kludge)」とみなされます。一般にこのような政策は、それ以前の政策に取って代わるものではなく、その上に重ねて組み上げられるため、「クラッジ(=複数の異なったシステムが累積され、複雑に絡み合う現象)」であると言えるのです。その意味では、例えばオバマケアの多くは「クラッジ」なのです。とはいえ私は、既存の政策の上に積み重なることで複雑さを増すような政策だけを指して「クラッジ」と呼んでいるのではありませんが、それが大部分を占めているのは事実です。
エズラ・クライン:論文の中で、アメリカは他国と比べて、他の政策アプローチに頼るのではなく、"クラッジ"を選択する傾向にある、と主張されていますが、実際には比較データが示されていません。この根拠はなんでしょうか?なぜこれが他の国の政治に見られるものではないと言い切れるのでしょうか?
スティーブン・テレス:比較段階でのデータはまだ収集中ですが、これについての最適な例は「税制」でしょう。PWCの最近の調査によると、米国における税法の要件を満たすための所要時間は世界第66位で、これはかなり直接的な複雑性の指標になります。
しかし(制度的な)複雑性を計測するということは実はとても難しく、それを総合的におこなっている研究はあまり多くありません。これはより一般的な問題、つまり複雑性が一種の秘匿された問題であるという事実を反映しています。私のこの論文の目的は、こうした複雑性に名前を付けることで、様々な事象を全て同じ課題の一部として考えることができるようにすることなのです。
エズラ・クライン:この論文から読み解ける一つの可能性として、アメリカの政治は他国のものよりも市場志向的(market-oriented)であることが挙げられると思います。つまり「クラッジ」な政策と通常の政策の違いというのは、政策の段階の違いであると解釈できます。例えば公立図書館や公立学校の制度は「クラッジ」ではない。しかし、貧困層がAmazonで本を買うための税額控除やバウチャー(補助金)制度は「クラッジ」であると。これは不公平な制度であるからということなのでしょうか?
スティーブン・テレス:アメリカがより市場志向的であるということが(クラジオクラシーの)説明の一端であることに疑いの余地はありません。しかし、それが何を意味するのか、これを私たちは考えなければなりません。私は、市場原理がある種の「権威」を持ち、同時に国民の社会的関心の大部分が正当な課題であると見なされるような政治文化が組み合わさった時に、「クラジオクラシー」が生じると主張しました。もし私たちが市場主義的で、国民がただ市場に身を任せ、その結果を見届けるべきだと思っているのであれば、それは公正な社会とは言えませんし、公正になり得ることもないでしょう。しかし、そうした社会ではクラジオクラシーも生じません。市場志向を維持し、一種の福祉国家になろうとすることが、この問題の原因なのです。
エズラ・クライン:その回答で非常に興味深いのは、市場が提供するサービスに対する一般的な議論、市場の方がうまくサービスを提供出来るといった議論を受け入れる余地があまりないことです。一般的に公共サービスを民間に委託することの方がかえって複雑性が増加し、民間が提供出来る効率性や革新性が損なわれるとお考えなのですか?
スティーブン・テレス:その通りです。繰り返しになりますが、問題は、あるサービスを市場を通じて行うのが良いか、政府を通じて行う方が良いのか、ということではありません。多くの場合、私たちはこのどちらか一方を選択することはできないのです。両方を実現しようとすれば、どちらかの長所が失われる。多くの場合「民営化」とは、ある機能を市場に戻すということでなく、多額の助成金を受けており、規制され、ときには占有された活動を、私有でありながらも高度な公的管理下で行うことを意味します。
そうなれば、市場の長所の多くが失われ、実際には政府に完全に依存している非常に奇妙な民間主体が生まれることになります。そうすると、顧客サービスよりもロビー活動や政府への影響力を高める方向にインセンティブが働くことになるのです。そのため、クラジオクラシーは単なる「効率性」に対する不満なのではなく、その複雑性により生じるガバナンスに対する不満であるのです。
エズラ・クライン:ご指摘されていたもう一つの原因は、「採択されるかもしれない政策」と、「斬新でクレバーな政策」の両方のバイアスにとらわれているシンクタンクや専門家のコミュニティの存在でした。政策コミュニティにおいてはアイデアを妥当性の範疇に収めようとするインセンティブが非常に強く、突飛なアイデアに対しては権力を行使してしまうのだと。
スティーブン・テレス:シンクタンクについては、政策アイデアの「サプライヤー(提案者)」のインセンティブが重要であると思います。一つは仰る通りシンクタンクの人々は「実用的」であること、つまり、既存の政治状況のもとで成立する可能性があるものを提案するインセンティブに振り回されています。これは主に、彼らの財源である財団によるものであると言えます。財団は比較的短期間で結果を出すことを要求するようになっており、それ故に今現在のごく狭い実用性の範囲内で機能するようなアイデアを提案するインセンティブが生まれ、このようにして抜本的な提言ではなく、既存のものの上に新しいものを積み上げるだけの政策立案となってしまうことになるのです。
加えて、先ほどおっしゃられた様に「クレバー」なものを提案することにはメリットがあります。クレバーであることは、少ないコストで高い利益を得ることを約束する提案ですから、制作メカニズムの内部ではその錬金術を行うための複雑なアクションが行われるはずです。ここでは、私の考える政府の最大の強みの一つである、大きくてシンプルなことが出来るというメリットは切り捨てています。しかし、「老後のための貯蓄を促すような間接的な方法を模索するよりも、社会保障給付額を増やせば良いじゃないか」と言ったところで、私たちが使う額以上の給付額を提供することは約束できない、それはそれで良いのですが、これはクレバーとは言えません。
エズラ・クライン:では最終的な結論は、「クラッジの度合い」を検討する手段が少ない、ということですね。シンクタンクはクレバーさと実用性を追求するインセンティブにとらわれており、民主党は、政府に過度に依存した提案を通すことができず思うようなことが出来ていない。共和党も、支持されている給付に対して反対はしたくないものの、国家の成長と戦う姿勢をアピールするべく、メディケアの保険料サポートのようなクラッジを起こしかねない提言をしてしまう。そして、論文で主張されていたように、より複雑で非効率な政策は、特別の利害関係者の儲けを生む。では、実際には誰が反クラッジ的なインセンティブを有するのでしょうか。
スティーブン・テレス:この論文は特定の誰かのために書いたものではないので、実際に誰がこのクラッジに対処しようとしているかは分かりかねます。しかしこの問題の重要な点は、先述したように、この問題には今まで名前が与えられてこなかったという点であると思います。私たちはこれらの異なった問題を、より大きな問題の一部として概念化する術を持ち得なかったのです。
ある意味、人々の関心と思想は繋がっているのだと思います。今この問題が包括的で非常に現実的な問題であるという実感がなければ、この問題に対して何か行動することに政治的なメリットはありません。クラジオクラシーによる代償がより目に見えるものであれば、起業家的な政治家や政策立案者がクラッジ対策を提案するインセンティブも高まることででしょうし、さまざまな公共政策における民間のコンプライアンス・コストがより明らかであれば、間接的な政策の実施がいかにおかしな事かも明らかになり、政治家もそのことについての叱責を恐れるようになるかもしれません。
例えば、退職金の多くを401(k)やIRAなどの年金制度に預けるために、人々は膨大な時間と、当然ですが投資信託の運用会社への多額の支払いを投じています。人々がそのためにどれだけの時間とストレスを費やしているかが明らかになれば、それを解決することで実際に何らかの恩恵があるかもしれません。ですが極端なリベラル派や保守派は、政策の複雑さがどれだけ自分達の利益を損ねているかということに、あまり真剣に向き合ってこなかったのです。
スザンヌ・メトラーが論じたように、リベラル派は、国民がこうした実態を政府同様認識していないため、政府が実際に自分達のために何かしてくれるとは思っていない、という事実を見落としているのです。そして保守派は多くの場合、「民営化」は間抜けでシンプルな政府運営よりも悪質なものであるということを認識する必要があります。つまり、繰り返しますが、重要なのは「問題の定義付け」なのです。これらの事象に名前をつけることが、その一助となれば幸いです。