レベッカ・M・ハージグ『脱毛の歴史』

「すでに、若い女性のなかには体毛を放っておくという人が増えている。理由は現在の流行だったり、単なるものぐさだったり、あるがままの姿に対するリスペクト、女性解放運動、あるいは、個人それぞれの考え方などいろいろだ。10年後の風潮がどうなっているか、誰に予測できるだろう?」

大学から借りてきて読みました。主に入植以降のアメリカにおける、「脱毛の歴史」についての本。脱毛技術の歴史と、人種、進化論、ジェンダー、フェミニズム、ポルノ等の関わりが論じられた、私にとってはそれなりに分厚い学術書…だったのですが、まあなんとなく軽く楽しくの気持ちで読みました。(返却期限が来たので7章の途中まで…)

生活に身近なものの文化史って、軽く楽しく手に取れるような、どんなありふれたものにも大河が存在するところが好きです。政治とか経済とか小難しい話も、身近なものの背景として語られることで面白がれる気がしていて、楽しいな〜と思う。その気持ちはきっと大学に入る前から持っていたんですけど、今回この本を読んでいて、進化論と人種差別の話とか、黒人差別撤廃運動の象徴としてのアフロとか、白人女性に理想とされた肌とか、第2派フェミニズムの運動とか、あ!大学の授業でやったとこだ!みたいなトピックがいっぱいあって!それらはたぶん、楽しいな〜の気持ちだけではそこまでの解像度で理解できなかった文章なのかもしれなくて。まあ全然まだまだというかそんなに理解できてる話ばかりでもないんですけど、学んだこと、私の中でちゃんと役立ってる…!という感慨を得てしまいました。大学の学費、無駄じゃなかったよおかあさん…。

特に面白かったのは毛深さと同性愛の関連の話、内分泌器官の異常は同性愛と関係があると考えた20世紀初頭の科学が、「毛深い女はレズの気がある」みたいな伝承を正当化した、というとこ(その前は女性には男性ホルモンは存在しないと思われていた デマ正当化の根拠にされている科学すら現代からしたら眉唾なの面白)、ブラック・パワーのアフロやヒッピーの長髪と同じように、剃られない体毛はフェミニストの主張の道具、象徴になったというとこ(毛、簡単だけど重要な意味を持つ身体加工になりうる すね毛生えたフェミニストへの疑問と批判の声面白)、あと19世紀、肌に危険だとわかっている脱毛剤を使ってボロボロになった女性たちに関する記述はぞくぞくしました!岡崎京子『ヘルタースケルター』みたいで…。リスクを冒しても美を求める心…もともと求めていたものは美に付随すると思われる愛とか名誉とか快楽とかより素晴らしい人生なんだろうけど…は、狂気じみていてその姿は文字通り化け物のようで、でもそうさせるのは間違いなく外圧で、19世紀のイギリスから、『ヘルタースケルター』が描かれた90年代、そして現在も、構造はそんなに変わっていないのかもと思いました。

脱毛 というと私にとってもわりと普通に身近な話題で、電車に乗れば広告に勧められるし、友達もみんなやってるように見えるし、毛深いのけっこうコンプレックスだし、やった方がいいのかな?という気持ちと、うるせ〜〜毛ぐらい生やさせろという気持ちに挟まれたまま生きています。まあ私は脱毛する「べき」なのか という問題にまで落とし込んでしまうともういろいろ辛いし答えがないので、1歩手前、なぜ私は脱毛したいと思うのか を考えていきたいんですけど、(こういうとらえかた、3年後期まで大学生やってみて改めて大事だな〜と思った、善悪ではなくそれが論点になるそもそもの理由を考えること、を意識していきたい)、こいつムダ毛の処理もできないのかと思われると困るからですよね、でもなんでムダ毛は処理しなきゃいけないとされてるのか、アメリカの人たちと同じように、私も「脱毛の歴史」の中で生きているな〜と思います。

私生来毛深いほうなんですが、中学卒業するまで体毛を剃ったことがなくて!(でも腋とひげは剃っていました!私にとってもそこはさすがに剃らないと清潔感がない?周りを不快にさせる?ものだったのかな?と思う、なぜ腋とひげだけ…)今思うとそんなJC嫌すぎる…という感じなんですが、当時の私にとってはひとつのポリシー、信念でした。なんていうか、毛を剃らないことが真面目で純粋なこどもらしさだと思っていたんですよね。眉毛も学校に言われるまま伸ばし放題だったし、それと同じ感覚だったのかもしれません。身体を自己決定、自己管理しないことが、従順な生徒らしさである、みたいな…。それは哀れでばかばかしいなりに面白い選択だったと思うのですが、でもこの本読んでると、毛のない肌は子どもの肌、幼い少女の肌を意味すると書かれてることがときどきあって。わざわざ陰毛を処理するブラジリアンワックスとか、もろにそんな話ですよね!私にとって、すべすべの肌=脱毛する余裕と美意識を持つ大人の女性の肌 なのですが、そもそもは逆なんだ!という発見がありました。 なんにせよ、友達から「お前毛剃れよ!」とか言われても頑なに剃らなかった中学生私は逆にものすごい自己決定の意思を持ってたといえるのかもしれなくて笑ってしまう、あのころちゃんと(ちゃんとって何?)すね毛を剃って眉を整えていたら、私の人生変わっていたかなとか、そんなこともないのかなとか、思ったりします。

さて、冒頭に引用した文ですが、1976年に書かれたものだそうです。なんだか今年同じことを誰かが言ってもそれは過言ではないですか?となりそう、と思うとどうにも切なくて可笑しいけど、まあ体毛の処理に絶対的な正解はないし。今後ムダ毛をボーボーに生やしても良くなったとして、それを一元的に社会の進歩だとはいわないでしょう、たぶん…。でも社会の何らかの要因が変化すれば、体毛の処理の正解も変わっていって、毛をボーボーにする選択肢を持つことが、今度こそ当たり前になったりもするのかな、とは思います。もしそうなったら、すね毛の生えた女の子を許せる老人でありたいと思うね。

ここから余談ですが、お友達にこの本の話をしたら、日本の脱毛の歴史はどうだろうねという話になったのでそれも知りたいな〜と思いました!きものって身体が隠れるので、体毛を剃り始めたのは一般の人も短いスカート履くようになってからじゃないかと思うのですがどうなのでしょう。あと、江戸時代には額を広く見せるために生え際の毛を処理するとかしてた人絶対いると思う!女子が成人したら眉毛を抜く、男子が成人したら前髪を剃るみたいなのも象徴的だし、この本では「辮髪を切る」ことが不当な刑罰に当たるという話題が出てきたんですが、それこそ日本人の「ちょんまげを切る」という行為はすごく大きな政治的意味を持っていたものな〜と思いました…。

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