「花束みたいな恋をした」を観た

今更ですが「花束みたいな恋をした」を観てきました。全然上手に話せなかったデザイン会社の面接の帰り、リクルートスーツ、大学生1人1500円、午後6時20分六本木シネマにて。リクルートスーツはこの映画を観るのに1番贅沢な装いだったと思います。感想うまく言える気がしないけど、映画すごくよかったので自分の記録のために書いておきます。

この映画、前半は2人が「好きなこと」で盛り上がる様子がいけ好かなくて(でもあの、「わかってる」かどうか相手を値踏みする感じ、すごいわかる〜〜!自分と同じものに価値を見出している人間がいる喜び、あるカルチャーを知ってるか知らないかで人間を選別する排他的なコミュニティ、「わかってる」自分への陶酔…オタクがオタク同士で「自分オタクなんですよワンピースとか全巻持ってるし」を嫌悪し馬鹿にするあの感じ!そこで生まれる仲間意識…私は全然どの分野にも造詣が深くないので趣味語りに自信持てたことないんですけど、むぎくんときぬちゃんのこと突き抜けてて羨まし〜と普通に思っちゃう し、そのカルチャーをただ消費して仲間内で語ってるだけの自分たちのこと特別だとでも思ってんの?と嘲笑いたくもなってしまう)、ちょっと変わっててでもたぶんどこにでもいる、「2人の世界」系カップルの話か〜と思って。彼らのカルチャーや価値観の方向性に注目しながら観ていたけど、後半でなんかこれ、むぎくんときぬちゃんという2人だけの物語じゃなくて、“私たち”全員の話だったんだ…と思いました。例えば、恋をしてその瞬間一緒にいたいと思うことと、結婚して人生を共にすることが別なのとか、働くことと人生の責任とか、好きなことを好きで居続けることの難しさとか、大人になっても自分の人生の主人公であり続けなくちゃいけないのとか、今村夏子、ミイラ展、宝石の国、きのこ帝国…に彩られたいかにもなカップルのリアルな恋愛が語られるときそこにある全部が今を生きる我々のリアル!という感じがして、その固有名詞も背景の空気も、えーん知ってるよ〜と思った。大人になっても自分の人生の主人公であり続けなくちゃいけないこと、これ2人の生き方で印象に残ったことで…うまく言えないけど、結局2人は一対の男と女として生きることはできなくて、1人の「自分」として生きることを選んだ様子を私は好ましいと思ったんだけど、それが幸せなことなのかはよくわからない。たとえば就職して結婚して子どもをうんで、みたいなありきたりの「当たり前」って本当は別に簡単じゃないしその中じゃ思い描く主人公にはなれないみたいで、でもそれを拒否して自分は主人公だと思い込み続けようとするのは幸せなのかな、実際には難しいことを正しき幸せなニューモデルと思い込まされている感じ、もう「やりたいこと」を考えるの嫌だよ。ここで自分の話、私の今の夢はそれこそ現状維持なんですけど、むぎくん見てて本当にやってらんねーわになってしまった。

有村架純かわいい

学生時代の前髪!あのパーマかげん!こういう女、いる〜!という感じでさいこうにかわいかった。就職後むぎくんの変貌ぶりが目に付いたけど、きぬちゃんも働き始めてからのファッション、学生時代とは違うんだよね。就職後の2人のすれ違い、対比と言っていいのかな、単純にきぬちゃんが「置いていかれてしまった」わけではないのが絶妙だな〜と思いました。

恋愛だった

ふだんあんまり恋愛ものに感情移入というか自分を投影することないんだけど、え、2人が惹かれあってくとこすごかったね!あの衝動、揺らぎ、計算と思いこみ、わかんないけどあるある〜!になってしまった。恋ってこういうふうにはじまるよな〜、こういうふうにはじまった恋、絶対楽しすぎるよな〜と思いました!特に、むぎくんが「絵を好きだと言ってくれた」と3回反芻するとこと、パフェに携帯のカメラ向けながら告白するとこと、信号待ちでキスするとこが好き。むぎくんときぬちゃん、特定のカルチャー、スキを踏み絵にして仲良くなるけど、友達になるには趣味の一致嬉しい!の気持ちだけで十分でも、恋人になるのに必要な感情はそれだけじゃないじゃないですかたぶん、ただ話が合うお友達、じゃなくてお互いへの感情が恋であることがここ(どこ)ではとっても大事なんだなというのがびしばし伝わってきて…でもだからこそ終わりがあるんだな、というのもなんとなくわかった。

2人のお付き合いめーっちゃ楽しそうだったね、傍から見ても楽しそう!羨ましい!というより、他人がどうとか関係なく本人たちがとっても楽しそうだな、という感じ。(でもきぬちゃん、デッキから見える多摩川をSNSに投稿してたと思う?どうかしら…)観ている人間は彼らの関係が数年のうちに終わりを迎えることを知っている構造酷すぎると思った、答え合わせの物語にズキズキでしたね。

本屋さんのシーン

ここ泣いてしまった。趣味を共有していたはずの人がもういないことを痛感する瞬間辛すぎる。わたし本を読む人間は読んだ本によって作られると思っているので…。ここのシーンだけじゃなくてこのへんずっと辛かった、2人とも、1人1人の人生として見ればやってること別になんにもおかしくないのにな。

大人になって読む本の話、前どこかの会社説明会で人事の方に「少年ジャンプより日経新聞のほうが面白くなるときがきます」と言われたことがあったんですけど、あれどういう意味なんだろうとずっと思っています。私にとってフィクションはけっして現実の代用品ではないので少年ジャンプと日経新聞を同じ「面白い」の土俵にのせる感覚がわからないんだけど、誇らしげにそう言う社員さんはかつて少年ジャンプをどういう気持ちで読んでいたんだろうと思った。し、もし私が将来日経を面白いと思えるようになったとして、そのとき少年ジャンプを以前のように読めなくなっているなら、え、そんな人生意味ある?とも思った。でもなんていうか、パズドラしかやらなくなったむぎくんはべつに別人になってしまったわけじゃなくて、彼の人生はずっと地続きで、環境や愛するものが変わったとしてもその過程そのものが彼なんだよね…絵を描かないむぎくんはむぎくんじゃないなんて誰にも言えないし、その人らしさを特定の物質的なものによって規定するのって変だし、うーん、いいとか悪いとかで外野が決めることはできないと、そう思います。

入籍!入籍!入籍!入籍!

ファミレスでむぎくんが別れたくない、家族になろうっていうとこからの一連のシーン、全部泣けてしまった。結婚しちゃえばよかったじゃんと私は思っちゃうんだけど、「花束みたいな恋をした」だもんな…花はドライフラワーじゃなくて生花だったんだね。

あともう1箇所泣いた場面があった気がするんだけど覚えてません、むぎくんときぬちゃん復縁してほしいけど復縁したらクソ展開すぎてキレる(情緒不安定?)と思いながら観てたので、お互いのことを名前でなく「元カレ」「元カノ」として思い出すラストに寂しさを覚えつつ安心しました。

エンドロールの話

衣装協力の企業名が流れるじゃないですか。物語の中で白スニーカーやグレーのパーカーやリクルートスーツや合コン服はそれぞれ記号として機能していたけど、リクルートスーツや合コン服も、それを愛している人、仕事として作っている人がいるんだなあ当たり前だけど、むぎくんときぬちゃんが愛したものは全然メインカルチャーじゃないほんの些細な世界で、「文化」の海は果てしないな…と思って、なぜかそこでまた泣きそうになってしまった。

平日夜、館内は若い2人ないし3人連れが多くて。ここにいる全員が、自分の恋と人生に重ねてエンドロールまでを観たのかもと思うとなんかもう、それぞれの人間の内に広がる世界の果てしなさにぞくぞくしちゃう、ひとつ空いて隣の席で観てたお姉さん、お姉さんにとっての今村夏子『ピクニック』は何なんですか。リクルートスーツを着た21の私はたぶんこの映画のターゲットの1人として最高に正しくて、でもこの国で20代前半をやっている人間、あるいはこの前までやっていた人間、私だけじゃなくてみんななにかしら心当たりがあるんでしょ?中高生とか中高年の感想はどうでもいいから(観るのかな?)、全同世代の感想が聞きたい、と思った映画でした。

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