「君の名は」を観る。


この前遅ればせながら「君の名は」をDVDで観る。
さすがに評判通りの傑作で感動した。
構造(つくり)は『超』が着くほどの日本では昔からあるもので、日本人のハートをつかむには絶対外れなしの構造である。
昔と言っても近松門左衛門とか忠臣蔵とかのアフター徳川ではなく、ビフォア室町みたいな、もうちょい昔からのテーマである、霊界=異界との交信である。
かなり古いところだとイザナギ、イザナミのお話しとなり、もう少し近代に近いところだと世阿弥の夢幻能だろうか。
夢幻能的な世界を前景化した作品としては、「魔法少女まどか☆マギカ」も印象的であるが、他にも浅田次郎さんの「鉄道員(ぽっぽや)」や「地下鉄に乗って」も「君の名は」に似た構造である。
SFのパラレルワールドやタイムトラベルものとこのような夢幻能型のどこが違うのかというと、SF系は肉体=存在の「移動」に重点が置かれているが、夢幻能系は肉体はもともとの存在や場所に固定されているのだが、異界との通信のみが内面でおこなわれる、という点である。
日本人は祖霊信仰の傾向が強いので、どんな年齢層の人でも、異界との通信は潜在的に得意なのである。
基層にそのような型があり、上層には菊田一夫さんの方の「君の名は」大林宣彦監督の「転校生」もあり、以前からの話しの原型がフラクタル構造的に重なっている。
これはシェークスピアの作品や、ジョージ・ルーカスがスターウォーズを世界中の神話や有名な話しを集積して構築した、等の話しで知られているようにスタンダードな方法である。
日本人的には、そこで古代からのお話しスイッチが入るのだが、話しが現代なので、なんというか2重のトリップ感があるのだろう。
高畑勲監督の「かぐや姫」も異界からきた主人公が異界に帰る話しだが、観る側としては昔話だから、というのがありトリップ感がシングルなので、現代を舞台にしている「君の名は」ほどの足元がぐらつくようなスリルというのはないのである。

というわけで個人的には、構造的にはそういう普遍性を感じたのだが、新海誠監督の画力やストーリー力はそういったフラクタル化された構造とはまた別個にすごい卓越した力と説得力を持っていた。
特にこういう感じで空気感というか、雰囲気感をアニメで表現するというのは、21世紀の今でしか表現できないものであり、日本アニメ界の蓄積の上に成り立つ金字塔的なものだと思う。
宮崎駿監督の「風立ちぬ」では、ストーリーの起承転結はあわく後景化しているのだが、その時代の雰囲気や、軽井沢のホワっとした雰囲気、というのをアニメーションの力で封じこめ、その雰囲気をアニメーションでしっかりと表現していた。
この雰囲気を封じ込める、というのは「ずっと夏」というエヴァンゲリンの空気感のあたりからはじまっているような気もする。
さらに新海誠監督は、夏の空気感や田舎と都市の空気感のみならず、ティーンネイジャーの持つ空気感すらも封じ込めることに成功し、観客をその空気感の中に引き込んでいるのだ。
これはやはり実写ではなかなか難しいところで、それを現在の日本のアニメは可能にしていて、これはどちらかというとARとかVRとかに近い感覚だと思う。
今までは小説などを読んで没入した際に到達する世界に、アニメを観ることだけで到達することができるになった、というような気がするのである。


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