「セデック・バレ」をやっと観た。

前から観よう観ようと思っていた映画「セデック・バレ」をやっと観た。

監督は「海角七号 君想う、国境の南」のウェイ・ダーションさんで、テーマは日本統治時代の台湾で実際に起こった霧社事件というセデック族の武装蜂起による惨劇を描いた映画で、2部合計4時間36分の長編である。

主人公は蜂起の指導者モーダ・ルナオ。

なんともすごい映画で、泣いてしまうほど感動してしまった。

ウェイ・ダーションさんは音楽でガッツリ泣かせるという大技を持っていて、そのパワーは「海角七号」におけるシューベルト「野ばら」でも存分に発揮されているのだが、この映画ではその音楽が原住民(風の)単旋律なので、完全に感動の渦にやられてしまう。

また、個人的にはこの監督の色使いや色の組み合わせはかなり好きだ。
この色合いには、すぐに映画の「その場所」へと観客を引き込むというマジカルなパワーがあるように思う。また俳優の表情をアップで撮るのもとてもうまい。
ウェイ・ダーションさんは、音楽、表情、色等映画の持つ古典的よさをしっかり出せる人なのだと思う。

映画の中で耳にするセデック族の言葉というのもこれまたなんともいい響きで、物語の味わいを深めている気がする。
よく考えるとヨーロッパ諸言語、アラビア語、中国語等のいわゆるマジョリティな言語以外の映画ってあまり観ないのだが、映画の中の言語によってやはり随分雰囲気が変わるなぁと思ったのだった。

ジョン・ウーさんが製作に入っているのでハリウッド風にカラッとしているとはいえ、殺戮シーンがかなり多いのでどんな人にもオススメ!というわけではないが、こりゃすごい映画だなぁと強く印象を受けた映画だった。

というところまでが短い感想で、下記はちょっと長めの感想。

「セデック・バレ」は日本統治下での、日本人と原住民との物語というなのだが、自分的にはあまりそういう人種や民族の衝突、とか言う印象はあまり感じず(もちろんそういう要素はかなりあるのだが)もっと壮大なスケールの、人類全体的なものを感じた。

この映画のようなことは、北米でも南米でもアフリカでもアラブでも世界中どこでも異民族のみならず同民族の間でも歴史に刻まれてきた悲劇で、その時人類はどのように対するのか、ふるまうのか、を凝縮した映画のように思える。
そういう意味では同じく自分が大好きな映画「ミッション」と「硫黄島からの手紙」と構造的には重なるところがあった。

「ミッション」は1750年頃、パラナ川上流域(現在のパラグアイ付近)の先住民グアラニー族へキリスト教を布教しにきた宣教師達がグアラニー族とは親密な関係になるのだが、奴隷貿易の政治的な思惑のなかで、スペイン・ポルトガル連合軍により、村ごと殲滅させられ、宣教師もグアラニー族もほぼ全員殉教するという映画。

「硫黄島からの手紙」は太平洋戦争時、日米の死闘がおこなわれた硫黄島で、栗林忠道陸軍大将率いる日本軍がほぼ全員「天皇陛下万歳」とともに殉死していく姿を描いたクリント・イーストウッド監督のアメリカ映画で、ストーリーの大半が日本兵のセリフで、それを英語字幕のアメリカ映画として公開したことで話題になった映画である。

どちらも超越的存在により死の意味を現世的世界観から解放するという意味で、共通したところがあり、このセデック・バレも同じくセデック族の宗教感、世界観を描ききることに成功しており、宗教学が好きな自分にとっては完成度の高い宗教映画のように「観えた」というのが総合的な感想である。

セデック族では敵の死者を先祖に供犠すると天国(のようなところ)にいくと信じられており、その信念体系がすべての行動原理になっている。
そのため、死を厭わない、無駄死にはならない、というロジックが発生し、先祖の住む国(神の国、霊的世界)という基準から現生を相対化するという、有史以後全世界の各地で見られる宗教的世界観がたちあがるのである。

お察しの通り、これはイスラーム原理主義(イスラーム教とは違う)におけるジハード(聖戦)の解釈を例に出すまでもなく危険でヤバイ感じなのである。マズくてよろしくないのである。
だがこの時に「不正」に対する「義」を通すための死、という要素が加わると美しさを感じてしまう、というのもこれまた人間の傾向で、これがなければ「新約聖書」にしろ「忠臣蔵」にしろ「スパルタカス」にしろなんにしろ膨大な量の物語の感動の説明がつかなくなってしまう。
とはいえ、やっぱりマズイよなぁとも思ってしまうのである。

ということでその辺りはひとまず置いておいて、この映画に感動した大きなポイントは他にもあって映像と音楽がムチャクチャ美しい!いい!ということである。

特にいかにも原住民の踊り、みたいのを、モーナ・ルダオとか若者が歌いながら踊るところが、美しくて涙なくして見れない感じである。あの歌と踊りは、「なんか現代が失ったもの」が全部含まれているようで感動した。

またその時歌う小泉文夫型テトラコルドっぽい単旋律(時に対位法含む)の歌とか同じく単旋律無伴奏の女性の悲しみの歌みたいなのも、リアル原住民の歌じゃなくて、多分リッキー・ホウさんが原住民の歌っぽく作曲したやつだと思うのだが、これがまたメチャクチャよくて泣ける!のである。
セデック族の人が話す言葉もなんだかネイチャーな感じでよい響きだ。

多分この映画の感動の中心点は、有史からの狩猟文化と現代国民型国家の相克と対立の悲しいバラードであり、それがこの映画の音楽の中で象徴的に表現されているのではないかと思うのである。

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