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恋人が死のうとした日

あの日は暑くも寒くもなくちょうどいい天気の日だった。
10時に仕事を終え、スーパーとケーキ屋へ立ち寄り11時前に帰宅した。
部屋の鍵を開けて、

開けたつもりが鍵は閉まった。

まったく、締め忘れて不用心だな。家の中に彼がいることはなんとなく分かっていた。
アパートの駐輪場には彼の自転車があったからだ。わたしが2年前に購入した黒色のスポーツタイプの自転車。彼が名古屋に来た際に、地下鉄以外の移動手段がないと不便だろうと、誕生日プレゼントとして買ってあげたものだ。
出勤時刻は過ぎているだろうに、それを見かけた時はまた寝坊したのかな、それとも今日は急遽休みになったのだろうか、などと思っていた。

玄関を開けると、ワンルームの部屋に繋がる短い廊下の途中で脱衣所の扉が開いている。見慣れない光景に首を傾げるが、脱衣所の先からは水音がしていた。やはり寝坊して慌ててシャワーを浴びているんだなと思い、彼の名前を呼びながら風呂の引き戸を開けた。

そして広がる光景に息を呑んだ。

まず、目に飛び込んできたのはバスタブのピンク色だった。
それはちょうど2日前、私が使った入浴剤の色に似ていた。香りは桜だっただろうか。いや、つつじだったか。
しかし今日は違う。
洗い場で衣類を着たまま横たわる彼がいた。
春の花の香りとは程遠い、血の匂いが生臭く充満している。

バスタブから色のついた水が溢れ出て、流れる水音が外まで聞こえていた。彼の体は溢れ出た水でびしょ濡れだった。

自分でも驚くほど、その後の行動は冷静だった。名前を呼ぶ呼びかけには応答はないが、服の上からでもわかる胸の上下と、口元に手を当てて感じる息遣いで生きていることを確認し、束の間だが胸を撫で下ろした。
そしてそのまま指は迷うことなく3桁の数字を押した。

「火事ですか。救急ですか」

「救急です」

救急車を呼んだことは何度かあった。ホテルマンをしていると一年に何度か、部屋や大浴場で具合が悪くなったお客様の対応をすることもある。だがプライベート、ましてや自殺未遂の通報の経験などあるわけがなかった。

「一緒に住んでる彼が、おそらく自殺を試みました。」

声に出すとさすがに震えた。電話口の救急隊員に傷口の場所を尋ねられた。おそらく手首だろうが、彼自身の体で隠れて見えなかった。
動かす勇気はなかった。

アパートの住所、自分の名前、彼の名前などを訊かれるままに答えて、
「もう救急車は向かっています。到着した救急隊員の指示に従ってください」
との言葉で電話は切れた。

通報を終えた後の自分も、いま思い返すと笑えるくらい冷静だった。
ドラマだったなら床に滑り落ちてぐしゃぐしゃになっただろうが、帰り道に買ったケーキの箱を冷蔵庫に仕舞った。
そして、彼の財布から身分証になるものを探した。予想はしていたが、自動車免許を保有しておらず、身分証のために発行していたマイナンバーカードを無くしたと言っていた彼に、身分を証明するものはないに等しかった。
彼の地元の病院の診察券がいちばんマシだろうか。
そんなことを思ってる間に救急車のサイレンがもうすぐそばに来ているのが分かった。

玄関のドアを開け放せるだけ開け放し、靴箱に収まり切らず散乱している二人分の靴を脇に寄せた。
救急隊が担架を持って入ってくる。誘導しながらわたしは自分の財布を準備した。これから救急車に乗るだろうし、わたしも身分証が必要だろうな、と我ながら恐ろしいほど冷静な頭で考える。

「彼が普段飲んでる薬などわかるものはありますか」

救急隊員の言葉に、目につくところにあった処方箋の袋を彼と自分の2人分の財布と携帯電話と一緒に、手当たり次第KALDIのエコバッグに詰めた。

わたしが予想をしていなかったことは救急隊員と同時に警察官も来たことだ。自殺の119番通報をすると、事件性を調べるために警察も介入するらしい。今回の件で初めて知った。
彼が担架に載せられて、おそらく処置をされている間、わたしは救急隊員、警察官の両方から事情を訊かれていた。こんなときにも、付き合ってる年数やきっかけ、同棲してる期間なども訊くのだな、とぼんやりと思った。

「搬送する病院が決まったので、彼女さんも乗ってください」

救急隊員に声をかけられ救急車に乗った。
そこには依然として意識のないまま処置をされてる彼の姿があったのだが、

「〇〇さん!〇〇さん!」

なぜかわたしの苗字で呼ばれていた。

「あの、」

119番通報の内容でも伝えたし、わたしの免許証も彼の診察券も見せたのになぜだろうか。

「あの、わたしが〇〇です。彼は××といいます」

あれ?といった感じで隊員は顔を見合わせた。

「あ、じゃああなたのジャージを彼は着ているということ?」

合点がいった。
彼がその日着ていたのがわたしの高校時代のジャージだった。
彼シャツならぬ彼女ジャージ。
この世からお別れするから彼女のものを身につけていたい、というわけではなく、名古屋に来て部屋着が足りないと言われて渡してから日常的に愛用していたものだった。

着心地がいい、そのジャージ。ドラマ性などない。

まあ、意識があっても自分のものではない苗字で呼ばれたら反応はしないわな。

その後、彼が彼自身の苗字で呼び掛けられるようになり、ようやく救急車が動き出した。

わたしは彼の携帯電話の連絡先の中から彼の母親を探し出し、電話をかけた。何回かのコール音の後に彼の母親の声がした。面識はあるので私であることを告げ、状況を話した。

年齢よりもあどけなく感じる、舌っ足らずな声の彼女は状況を飲み込めず、「どうして」「なんで」と繰り返した。
「どうして」も「なんで」もわたしには答えようがなく、「どうしたら」にようやく「こっちまで来るの遠いから大変ですよね」とだけ告げた。
「来てください」と言うべきか、言う立場なのかすら分からない。彼の地元は九州だった。
状況が変わったら再度連絡することと、彼の携帯が充電切れになったらわたしの携帯からかけるから登録してない番号の着信でも出てほしいとだけ伝えて電話を切った。

病院に到着して、彼は処置室に運ばれた。とりあえず切った左手首を縫うようだった。わたしは待合の椅子で、制服の警察官ふたりに挟まれて座った。彼らは先ほどよりも更に様々なことを訊いてきた。

「こうなりそうな予兆はあったの?最後に連絡取ったのはいつ?」

「夜中に通話をしました。今後の仕事について辞められるよう対策していこうと前向きな話をしました」

夜中に電話した時の彼はむしろ今までよりも前向きであった。仕事を辞めたいことを上司に言えず、どうしたら辞められるかを悩んではいたが、わたしのアドバイスに明るい声を出していた。

「〇〇ちゃんが帰ってきたらいっしょに、退職したいって上司に伝える手紙を書いてみる」

元気はないけど自暴自棄でもなかった彼の声を思い返す。

「一緒に暮らしてるのに、あなたが最後に会ったのは昨日の朝なの?」

そもそも11月に入ってからのわたしの生活リズムはめちゃくちゃだった。
元々がホテルマンとして夕方から翌日午前まで働いているのだが、それに加えて11月前半は夜勤前にダブルワークもできる限り入れていた。つまり、水曜の午前から木曜の午前まで24時間、金曜の朝から土曜の朝まで24時間働くといった形だ。

深夜時間帯に仮眠休憩はあるが2時間程度。その時間も、夜になると心が不安定になる彼との通話時間にあてていた。
実際眠れるのは1時間あるかどうか。
それでも当時はそれを苦痛とは思っていなかったわけだが。

彼を発見した12日は土曜日。
10日の夜も訳あって十分な睡眠が取れず、11日の午前から24時間働いた後の発見であった。
翌日の13日もホテルの仕事はあるが、ダブルワークではないので十分休めるし、12日の夜は彼の退職についての対策を練ろう。前向きに退職について動き出した彼を応援するためにケーキでも買って帰ろう。
そう思って彼の好きそうなガトーショコラとチーズケーキ、わたしが好きなミルフィーユとタルトを買って帰ったのだ。

「……遺書は見当たらなかったけど、その中に何かあるのかな」

ふくよかな体型の警察官がわたしの手の中にある彼の携帯電話に目を落とした。

「…探してみます」

わたしが彼の携帯電話を操作する。カバーにヒビのあるiPhone12はパスコードでなんなく開いた。

「よくパスコード知ってますね」

 ふくよかな体型の警察官も強面の警察官も驚いた顔をしていた。

「…隠し事をするのが下手なタイプの人なんです」

さっきもパスコードを知っていたからこそすぐ彼の母親に連絡ができた。といっても実際に携帯電話のロックを外したのは今日が初めてだ。

開いたままになっているアプリから順に見ていく。まずはLINE。数日前の未読のメッセージもいくつかある。職場関連のものも。いちばん上にはお気に入り登録をされた彼の母親の連絡先があった。メッセージのやりとり自体は数週間前のようだ。開くのは良くないけど開いた。作成途中のメッセージが目に入る。

「いままでありがとう。ごめんなさい」

ああ。
本当に死のうとしたんだな。
実感が込み上げた。もちろん状況を見たら自殺としか思えないのだが。それと同時に一種の期待が生まれた。
わたしとのやりとりの画面にもわたしへ向けたメッセージがあるかもしれない。
そう思って画面を操作したが、夜中に電話を切ったままの表示のみだった。渇いた息をつく。

その後はTwitterとInstagramを開く。InstagramはDMのやりとりがいくつか残っていたが特に気になるメッセージはなかった。Twitterの直近の投稿が「バイバイ」と画像も載ったものだったので、ふくよかな体型の警察官にiPhoneごと手渡して見せた。警察官も神妙な面持ちで彼の投稿を見ている。

喉が渇いたな。

帰宅してからなにも口にしていないうえに、事情説明で喋ってばかりだ。お茶を買いに行きたいが初めて来た病院で、自販機の場所も分からない。探しに行こうか。彼氏が自殺未遂をして意識がない状況なのに、呑気にお茶を買いに行こうとしたら人でなしだと思われるんだろうか。
いや。そもそもそんなことを考えているわたしはどうせ人でなしだ。

だって、

風呂場で倒れた彼の体を見つけた時にわたしは思ってしまった。

「どうしてこの人はわたしに迷惑をかけるんだろう」

どす黒い自分になど気づきたくなかった。
こんなことがなければ気づかなくて済んだのに。

喉の渇きは一向におさまらない。
今は状況が動くことをひたすら祈るほかなかった。