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母は偉大【恋人が死のうとした③】

土曜日の昼過ぎの病院で、わたしは売店に急いだ。

彼の靴を持ってきていなかった。救急車で運ばれたのだから、履いているわけがないのに。衣類を取りに帰った時に持ってくるべきだったのだ。
自分の考えが足りなかったことが悔しい。
どう見ても100均で売ってそうなスリッパを1000円で購入した。

高い。

彼が生きているからこその出費だから惜しいと思ってはいけないのにもったいないと思ってしまった。

先ほど、持ってきた衣類を彼に着せた時のことを思い返す。おそらく点滴だろうチューブが邪魔してうまく着せられなかった。あきらめてもう一枚持ってきていた前開きのシャツを着せた。
こんな場合に持ってくる衣類としてパーカーは不向きだということ、救急車で運ばれた場合は靴も忘れずにということを覚えておこう、と思ってからこんな場合が何度もあってたまるかと心の中で苦笑した。

通話が許可されたエリアにも寄り、彼の母にも再度連絡をした。
夕方、彼のひとつ年下の弟とともに新幹線でこちらに来るらしい。
家にあげるわけにいかないし、どこで会えばいいんだろうかとぼんやり思う。

彼の元に戻ると、枕元にはカウンセラーらしき女性が来ていた。

「もうこんなことしちゃだめだよ」

と小さい子に言うように彼に言っていた。

なかなか目を覚まさなかった原因は睡眠薬の過剰摂取だった。ストレスで不眠が続き、インターネットで購入していたものを多量に服用したようだ。

彼が”こんなこと”をしてしまった原因はやはり職場での悩みだった。

休みもなく、残業ばかりで、朝早くから夜遅くまで働き詰めだった。

ずる休みでもいいから休めばいいのにとわたしなら思ってしまうが、追いつめられると人間は正常な判断ができなくなってしまう。

「職場から電話きてる」

怯えた表情で彼が言った。朝から幾度となく着信は来ていた。
無断欠勤したわけだから当然といえば当然の話だ。

「代わりに出ようか?」

とっさに口についた。
彼があまりに小さな子供に見えたのだ。

「…いいの?」

再び通話可能エリアに向かった。

「どこにいるんだ」

開口一番怒鳴り口調の男性の声に、さすがに怖気づいてしまう。

しっかりしろ。守ると決めたんだ。

「わたくし、××くんと一緒に暮らしている○○と申します。」

予想しない女の声に相手がひるんでいる間に言葉を並べた。

「××くん、今朝、手首を切っていたんです。救急車を呼んで病院に運んでもらって、いま目を覚ましたところです」

「え」

電話の向こうで相手は言葉を失ったようだった。

「…なんで××はそんなことをしたんですか。あなたとなにかあったんですか」

本当に分からない、といった声に、今度はわたしが言葉を失うほうだった。

こんなに働かせておいてなにを言っているんだ。

「なんでって…。職場のことに決まってるじゃないですか」

頭に血が上るとはこのことだと思った。

「××はずっと休みもなく朝から深夜まで働き詰めだったんですよ。職場の人間関係でもずっと悩んでましたし」

「…今××と話せますか」

「今は会話できる状態ではありません。とにかくしばらく出勤が不可能な状態なことだけはお伝えさせていただきます。よろしくお願いします」

彼にiphoneを返しに行くともう一件、職場の別の人への連絡も頼まれた。
こちらの人は心から心配している様子で少し安心した。

守るためになら、モンスターペアレントならぬモンスター彼女にでもなってやらないといけないのだ。


外科の医師が来た。
もう退院していいことと、手首の切り傷を縫合したため後に抜糸が必要なこと、とりあえず2日後に経過観察のため来院してほしい旨を伝えられた。

2日後。明日も夜勤だからその日も夜勤明けか。10時に退勤して11時病院ならギリギリ間に合いそうだ。なんとかなる。なんとかせねば。

彼が目を覚ました時点で仕事は休まないと決めていた。
この忙しい時期にシフトに穴をあけられないと思ったし、結婚しているわけではない相手のこの状況を職場にうまく伝えられる自信はなかった。
恋人がこんな状況でもわたしは仕事のことを考えている。冷たい女かもしれないが、生きていくためにはわたしだけでも働かなければいけないのだ。いやむしろ彼がこんな状況だからこそともいえる。

仕事も、彼も。どちらも妥協しないで守り切ってみせる。

彼はまだ薬の影響が残っているらしい。
力が入らず立ち上がることすらできず、車椅子に乗せた。
タクシーを呼び、病院の通用口から帰路に着いた。

たった数時間前にもいた自分の部屋は、警察が入った後だからか他人の香りが混ざった気がした。
それでもようやく帰れたと思い、息を吐いた。

病院で着せられたおむつが気持ち悪いからすぐに脱ぎたいと言って彼は脱衣所へ向かった。

「うわ」

そのままにしてあったバスタブを見て声をあげる。

「こんなんだったんだ…」

そうだよ。これがあなたの血の色だよ。
生きているから流れるんだよ。
さすがにそれは言わずに、

「あー、あとで掃除するね」

とだけ言った。
彼は手首を切ったときに使った剃刀を拾い、黙ってゴミ箱に投げ捨てた。
いや俺が汚したんだし俺が掃除するよ、とか言ってくれるかと思ったのに。
病人にそれを求めるのは酷か、いや、そもそも病人の定義に当てはまるんだろうか。

「おなかすかない?」

明るい口調を意識しすぎて不自然だったかもしれない。彼は首を横に振った。

「なんか体がだるい。まだ薬が残ってるかも」

本当はひとりにさせるのが不安だった。いつそのきっかけがくるのか、死にたくなるか分からない。

「もうしないから」

黙ってしまったわたしの思考を読んだのか、彼はベッドで横になった。
わたしはそんな彼を残して部屋を出た。

11月といえど、太陽が眩しい。
そういえば夜勤明けだったな。
疲弊した体に日差しが突き刺さる。
コンビニで自分用におにぎりとみそ汁、彼のために飲料ゼリーとプリン、ヨーグルト、スポーツ飲料を買った。

信号待ちでTwitterを開く。
土曜日の午後、タイムラインはにぎわっていた。推し活をしている友人たちは真昼間の太陽よりも眩しい。自分がどこか遠いところにいるように感じる。まあタイムラインの友人なんてそもそも遠くにいるのだが。

「フォロワーおねがい、なんにも聞かずにわたしを励まして!」

事が起きて数時間、ようやく自分のためだけに時間を使った瞬間だった。
仕事でつらいことがあったと思われたのかもしれない。すぐにリプライが来た。

「頑張って」
「いつもえらいよ」
「大好きだよ」
「ほんとよく頑張ってるね!」
「応援してるよ」

彼がどうとか関係なく、わたしだけに向けられた言葉を見つめる。なにも知らなくてもほしい言葉をくれる友人がいる。まだまだ走れるかもしれない。返信も反応もしないまま、わたしは画面を閉じた。

部屋に帰ると彼はだれかと電話をしていた。
ああよかった生きている。
わたしは胸をなでおろす。

「さっき○○ちゃんが代わりに電話出てくれた上司、今からくるって」

「え?怒鳴ってきた人?」

「うん」

意味が分からなかった。彼も、彼の上司も。
要領を得ない彼の話をまとめると、先ほど私が会話した彼の上司は一緒に勤務しているわけではなくエリアマネージャーのようなポジションらしかった。勤務先の実態を知らなかったわけだ。だとしたらわたしは相当強気な対応をしてしまったかもしれない。彼の体調面、精神面を心配して今から訪ねてくるらしかった。

「悪いけど…外で話してほしい」

 これ以上他人を部屋にいれる気力はない。彼ももとよりそのつもりだったようで、素直に頷いた。

チャイムが鳴った。彼の上司だった。

彼が出る。怒鳴り散らされていたらどうしようと会話が聞こえる位置で身がまえていたが、案外普通に話していた。わたしの出る幕はなさそうだ。

ふと思い当って母に連絡した。彼の母ではない。私の母だ。普段長電話に付き合ってもらうのは姉だが、この時間はまだ姉は勤務中だ。携帯を携帯しないことで定評のある母だったが、意外にもすぐに電話に出た。

突然の電話にもかかわらず、特に不思議がることもなく、今お父さんがね~のようなのどかな会話が始まりそうになる。

「あのね、ちょっと聞いてほしくて」

珍しく真剣な私の声にやっと母は「どうしたの」と声を潜めた。

かいつまんで話をした。看護師をしていた母は精神病棟にも勤めていたこともあり、大袈裟なことも言わず、黙って聞いていた。

「いまやっと家に帰ってきたところ。××くんは職場の人と話してる」

母の反応はわたしの予想を超えてきた。

「そう。ていうことはあんた夜勤明けでそのままずっと寝てないんでしょう」


虚を突かれたとはこのことだった。乾いていた心が一瞬でなにかで浸されたような気持ちになった。娘を慮るような物言いではない。淡々と事実を言っているだけで、それがまた母らしいと思った。

「心の病気って大変なのよね。ほら、ケガだったりガンだったらどこが悪いとか目に見えるじゃない?でも心は誰にも見えないからね。治ったかどうかも分からないのよ」

普段より幾分も優しい声で母は言った。

「大変だったね。いつでも電話はつながるようにしておくね」

通話したのはたった数分だったが安心させられた。
母は偉大だ。


その後、上司との会話を終えた彼が部屋に戻ってきた。

話したいこと、聞きたいことはたくさんあるのに。

もう言葉を交わすエネルギーはふたりとも持ち合わせていなかった。

コンビニで買ったはいいがまだ食べていなかったおにぎりを食べ、少し休むことにした。彼は食欲がわかないらしく、飲料ゼリーだけ飲んだ。

ベッドは彼に譲り、私はソファで横になる。
既に夕方と呼べる時間帯になっていた。
疲れ切った体はとうに限界を超えており、オーバードーズによる睡魔に襲われている彼よりもおそらく先に、私は意識を手放した。