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Д29 私は誰か

「私」とは誰ですか。

という質問をするパパジ

いろんなビデオやインタビューを見ていると、何度も何度もこの質問をしている様子を見ることになります

その度に私も真剣にこの質問を自分にしていました

そして、わかった事があります

彼はこの質問をして答えが出てこないときは、何度も深く追求して問い続けたほうが良いのでしょうか?という問いに対して
「一度だけで十分です」
答えはその場ですぐに出るからです

正しい答えがそのうち来るのを待ってはいけないと言っています

その時「あ、あのことだ」と気づきました

ビデオや本を読む度に、私って誰なんだろう。
この、「私は誰か?」という疑問を把握している存在は、何なのだろう?
それが本当の私なんでしょ?

と自問すると、頭がフリーズしてしまう時と、延々ぐるぐる考えて意味わかんなくなって、もういいや。質問の意味さえわかんなくなっちゃった。となる時に別れます。

これが答えだったのです
これが真我を垣間見た瞬間だったのです

すぐに覚醒する人もいれば、できない人もいる
できないのは真我に拒絶されているから、まだ準備ができてないから

その通りです

分かんないな、を通り越して速攻で頭がフリーズする時それが真我の状態です(多分)
そして、それが今の私の雑念や汚れを通して見えている真我なのではないかと思います

そして、ぐるぐる考えた末にやっぱ分かんないし、質問の意味すらわからん。となってやーめた、となる時も、ようやく思考を放棄した末に垣間見た真我だったのです。

パパジが使うトリック(教えではなく)には「私とは誰か」という質問の他に、静寂を保ちなさい、一切の心の動き(思考)を止めなさい、というものがあります

思考は自分ではないのです

答えを考えてしまう時点で、真我を見ようとする目が汚れて曇ってしまうのです

思考が止まって当たり前
答えがわからなくて、当然

だって、真我は自分を見たくて知りたくて世界を作ったんだもん

真我がそれを知りたいのであって、私らはこの世界を切り取ったちっこい場所から見える真我の姿を、貧しい語彙で何とか表現しようと躍起になる事しかできない(そしてできない・・・)

答えに詰まって頭真っ白けになった私たち、そしてそれでも純粋に本心からそれを分かろうとする時、私たちは真我そのものに飲み込まれるのでしょう

生き神様と言えるパパジは自分を「あれです」(真我です)と表現しています

そして全ての人々は自分の現れとして見ています

つまり「私は誰か」と自分に聞きなさい、という時それは「自分で自分を見ようとする真我の現れ」同志としての対話をしているのです

パパジは覚醒した人によく「あなたは何を見ましたか?」私はそれに対する答えを未だ知りません、あなたはそれをどう表現しますか?と聞いています。
きっと真我は、それに対して興味津々なのです

毎日一人サットサンを開きながら、今日はこんなことに気づいたのですが
日に何度も「私は誰か?」と自問するたびに垣間見る僅かな空白の状態に向かって無言で「やっほぅ」と手を振ることにしてみました。

ほら、アピールってやっぱ大事じゃん?
思考も言葉も挟まないで、「ここにいるよ、今から帰るよ」とアピールすることで

その内パパジのような具現化した真我と、会えるかもしれないしね。


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