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中島 英世 / nakashima hideyo

まるで陽だまりに育まれた南国の風を運ぶように彼女はやって来た。彼女が将来目指しているものや人柄などは出会う前から話に聞いていた。だからこそ、出会う前から勝手に出会った気になっており、初対面の時にも再会の懐かしさを感じたのだ。中島英世(以降、英世ちゃんと呼びます)の落ち着いた穏やかな笑顔は今でも私の心を満たしてくれる。


英世ちゃんは鹿児島県の奄美大島で生まれ育った。伝統的な織物である〈大島紬〉が身近にあり、幼い頃から織物やものづくりに興味を抱いていた。高校卒業後は鹿児島にある短期大学へ進学し、生活科学学科を専攻する中で服飾の知識などを学んでいく。その日々の中で、卒業制作のために1枚の布を織った経験が〈織り〉と向き合うきっかけとなった。


「当時、大学でお世話になっていた教授が、大島紬の〈泥染め〉という技法を使った作品を作られていました。織物の経験がなかった私に対して、生まれ育った土地の織物に目を向ける機会だと背中を押してくれたんです」。


卒業制作のために使用したのは大島紬の残糸。その糸を使って布を織るために、夏休みは近所の織り工房を借りて制作を行った。糸の準備や織り方など織物について未経験の中、周囲の関係者や先輩たちに支えてもらいながら、無我夢中になって織り続ける日々だった。


「1枚の布を織り上げた時には、言葉にできない達成感がありました。ひたすら織りのリズムを刻むような感覚や、織り機の振動が全身に伝わる感じ、その熱量を身体や心が噛み締めているような体験でした」。


織物の世界の広さと奥深さに魅せられた彼女は、大学卒業後、地元で4年半ほど織工として大島紬の織りに携わることに。手で布を織っていく手織りの技術を磨いていく時間にもつながった。その傍らで、手織りの布で暮らしに馴染めるものを作りたいという想いから〈ORUHI〉というブランドも立ち上げる。次第に、展示などを通して服を作る楽しさにも出会った。手織りのものだけに限らず、大島紬の古布や植物で染めた布を用いた服の制作など、活動の幅が広がっていくようになる。その中で、お客さんに作品を見てもらう機会が多くなったからこそ、改めて今後どのようなものづくりがしていきたいのかを見つめ直すようになった。


「私は暮らしの中に手織りのものがあることの安らぎを感じていたので、原点の〈織り〉についてもっと知識と経験を深めたいと思いました」。


これまで関わってきた伝統工芸品である大島紬は、他の織物と比べると特有の柄や工程を持ち、図案や染色、織りなどが分業制で行われているのが特徴である。それらを含めた大島紬の一連の工程を知るためにも、まずは島外の織物について学んでみようと、奄美大島を離れる決意をすることに。幼い頃から大島紬に触れていたからこそ、島外の織物に対する好奇心もあった。

どのように図案が描かれるのか。そのイメージはどのように具現化していくのか。素材となる糸はどのように選んでいくのか。作りたいものを手織りで表現していくには今の自分に何が足りていないのか。

それらの問いに対して、心の赴くまま京都へと引っ越したのは2022年の秋のことだった。


「織物関連の企業や個人の方と連絡を取りながら織りについて教わりに行きました。作家として織物を生業とされている方が多く、特に、お一人で図案から織りまでされる方に刺激を受けました。その方々からイメージを図案に落とし込む方法や、図案を織物に仕上げていくまでの流れを教えていただき、今後の制作に向けた大きな経験となっています」。


引っ越したばかりの頃は、仕事との兼ね合いで忙しい日々が続いていたが、現在では少しずつ自分の制作にも向き合うことができるようになったという。自宅には譲り受けた織り機があり、織りはじめると夢中になって、気づけば夜通しで制作していることも。織り機に向かっていない時間は、大島紬や織物についての書物を開いたり、ノートに図案を描く練習を繰り返したり、作家さんのアトリエに足を運んで話を伺ったりしている。

ひとつひとつ丁寧に向き合っていくことで、〈ORUHI〉で自分が納得したものづくりをするための道を作っている。

続きは、以下のサイトよりご覧いただけます。
Leben「ある日の栞」vol.12 / 中島 英世


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Lebenはドイツ語で「生活」を意味します。
正解のない様々な暮らしや生き方を形に残します。

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