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タッチプレーの走者は点Pじゃないって話

創作意欲が終わっているのでサムネのネタが尽きた。

告知

俺のnoteなので自由に告知ができます。スキップは禁止していませんが、こんなところまで読んでいる時点でだいぶ時間を無駄にしていますよ。

ここから本題

 四角形BCAD上を動く点Pは、点Bを出発して時速xで左回りに移動する。一方、点Dを出発する点Qは、時速yで対角線DCを移動する。点Pが点Qと重なるのは何時間後か。

 中学の数学でさんざん解かされたこの手の問題。意図としては、例えば小学校で取り組んだ「A君が時速164km/hで家を出た20分後に忘れ物に気付いたお父さんが時速2km/hで追いかけました。追いつくのは~」のように具体化された設問を、より抽象的・一般的に捉えて考えることを期待しているのであろう。その意味でPを謎の点呼ばわりしている我々はまだまだ抽象的な理解が足りていないのかもしれない。

 最近R言語関連の記事しか書けていないので(何も書いてないのでは?)、久々に抽象化された話題をば。まあ野球の話から入るんですけども。

Báezタッチの隆盛

 近年の(言ってここ5年ぐらいで定着しつつある)守備におけるトレンドの一つにいわゆるBáez型、ベースの前に出て行うタッグがある。

NPBのプレーのみに絞っても、挙げたらきりがないのでこの辺で。

 必ずしもベースの前に出ることが要件ではないが、

  • ベースを跨いで送球を待ち

  • 捕球したらベースの前でタッグする

従来セオリーとされてきたこの2点から逸脱することを定義とすればしっくり来るだろうか。日米間で程度の差こそあるが、後に整理するような環境の変化もあって「早い」タッグのワールドスタンダードとなりつつある。

タッチプレーのモデルとその拡張

 では次に、このタッチプレーにおけるブレイクスルーをシンプルに説明するための「モデル」を考えてみよう。ネタバレタイトルなので伏線回収にすらならないが、冒頭に挙げた点Pの問題はここに深く関連してくる。

 話を単純化するため、ここでは2塁への盗塁阻止を考える。

従来のタッグ

従来の、というかタッグのモデリングは、概ね以下のような記述に集約される。

  • 1塁走者は1塁から2塁に向かって移動

  • 捕手は投手の投球を受けて2塁に送球、ボールが本塁と2塁を結ぶ対角線上を移動する

  • 遊撃手もしくは二塁手(ここでは大きな問題ではないので、送球の受け手として一本化する)は2塁ベースの真上で送球を待つ

  • 走者が送球がそれぞれ2塁に到達するまでの時間の前後によってアウト/セーフが決まる

図にした方が分かりやすいですよね。


画像(左下部分)リンク

 このモデルにおいては、すべての動作主体が点としてモデルに組み込まれている。すなわち、本来タッチのしやすさに関係するであろう走者の体の大きさや、走者のスライディング技術に関する個人差をあえて分析の対象から外し「全員が同じような背格好で同じレベルのスライディングをしたらどうなるか」をうまく説明できるようなモデルを組むわけだ。また、追加的に

・送球が逸れて2塁に到達しない場合はタッチできないものとみなす
・モデルは平面上で扱われ、送球の高さやショートバウンドの有無は捨象する

ことを暗に仮定しているとみなすこともできる。これが、走者を点Pとするモデルである。

 このモデルにおいては、盗塁阻止の精度を決めるのはほとんど捕手の送球のみである。言い換えれば、タッグの技術に関する議論を(無意識的にせよ)ほとんど捨象しているわけだ。ベースを跨いで送球を待つ内野手はベースと同化した不動点、ボールを受けるだけの存在であると仮定されており、捕球からタッグまでの時間にも大きな個人差を認めていない。また、送球がベースから逸れた場合、そこからタッグまでに余計な時間がかかることはモデルに含めることができるが、許容範囲はかなり狭く、一塁側であれ三塁側であれ、そこから送球の軌道が外れることがイコール阻止失敗とみなしているとも取れる。ある意味、仮定自体がタッチの技術を追求することを許していないとも言えそうだ。

 例えば、キャッチャーのスローイングを評価する「ポップタイム」は、こうしたモデルの下で考案された指標であると言えよう。投球を捕球してから、二塁に入った野手のグラブにボールが到達するまでの時間を測ったこの指標は、現在でも捕手の肩の強さを定量的に評価する手段の一つとして利用されている。もちろんこれだけで「スローイング」のすべてが分かるわけでないことは大前提。それでも、このような単純化が全く誤った結論を導くわけではないことも恐らく事実で、ある程度狙ったところに素早く投げられる捕手の存在が盗塁阻止の重要なウエイトを占めていることは否定できない。

 ちなみに、野球ゲームにおける盗塁のモデリングはほぼこれに近い。最近はもう少し進化しているのかもしれないが、多くの場合選手を表すキャラクターは長さをその位置を示すための「記号」に過ぎなかったし、タッチを巡る攻防を事細かに描写するよりは、そのタイミングだけでアウト・セーフが決まっていたものが多かった。捕手の送球精度も多少は考慮されていたものの、細かいバラつきが出るというよりは一定確率で明らかな悪送球が出ると考える方が正確だったように思う。これは現実の環境をリアルに再現するわけではないものの、野球というゲームをシンプルに・扱いやすい形で表現することを可能にしたモデルの一つである。

Báezタッグを評価するための「拡張」

 前項の議論を踏まえて、この「全部点」モデルをより現実に即したものに拡張(≠修正)したのが、以下の特徴に集約された新しい記述方法である。

  • 走者は一定の長さを持ちながら移動する「線分」である

  • 捕手の送球は逸れた・ドンピシャの二値で記述できるものではなく、逸れた方向・高さも踏まえて詳細に記述される要素とする

  • ベース上で送球を受ける内野手は、必要に応じてベースを離れ、動きの中で送球を受けてタッチに移行することができる。

  • タッグのしやすさには送球や捕球時の内野手の動きの向きが関連しており、捕球からグラブを下ろすまでの時間には系統的な差が生まれる

 内野手は走者に「点」でタッグすることが求められるのではなく、頭からつま先まで幅を持った対象のどこかに触れることができればOK。あえて整理すると当然考慮されるべき要素にも見えるが、一方で従来の環境では分析の容易さを求めてこれらを捨象する合理的な理由も存在していた。例えば

  • そもそもほとんどの内野手がベースを跨いでタッグを行っていた

  • クロスプレーでは走者の走路の前にグラブを置き、滑り込んできた走者の足先にタッチすることがほとんどであった

  • 触塁する走者の足(手)から離れた場所にタッチした場合、そのタイミングの前後を正確に判断することは難しく、リプレイ検証の制度・精度にも不備があった

  • コリジョンルールの規制が甘く、走路を塞いでタッチすることがある程度許容されていた

  • こうした状況から、審判もベース前タッグの判定に関して高い精度を保証できない・する必要がない環境が形成されていた

どの要素がどの条件に作用したかといった因果関係こそ明白でないが、冒頭のタッグの例で挙げた通り、近年の(プロ)野球では明らかに状況が変化している。また、あくまで筆者の感覚だが、新しいタッグ技術の優劣・あるいは導入に対する意識には十分な個人差がある。タッチにおける走者との位置関係や送球位置の細かなズレは、盗塁阻止(その他のタッチプレー)を描写・分析するうえで、無視できない要素になったというわけだ。

 これらを踏まえて、新たなモデルは以下の図に集約される。

 

モデルの改善がもたらす分析のパラダイムシフト

 では、こうした要素を考慮したモデルを組むことで、具体的にはどんな示唆が得られるのか。引き続き盗塁阻止を例にモデルを考える。単純化のため、投手のクイックなど、投球が捕手のミットに収まるまでの時間は全く同じであると仮定する。

付言すると、「投球が捕手のミットに収まるまでの時間が全く同じであると仮定する」ことも分析を容易にするための単純化である。いくらその方が正確だからといって、あまりに様々な要素を組み込むと分析が複雑になることが分かる。

 捕手のポップタイムが盗塁阻止に対して大きな比重を占めていることはどちらのモデルでも変わらない。受け手の野手のグラブに収まるまでの時間が短縮されれば、それだけで盗塁阻止率は改善される。

 一方、受け手の内野手が単に送球を捕るためではなく、そのままタッチに移行する目的でベースを離れることができると仮定した場合に、そうでないモデルとの間に生まれる違いは何か。一つ考えられるのは「そもそもポップタイムを計測できる範囲を拡張する」という点である。

 逸れた送球を受けて走者の身体のどこかに触れられればアウトにできる、というモデルで評価する場合は、捕手の送球精度に関する許容範囲は格段に広がることになる。ピンポイントで走者の足にタッグすることを唯一の手段とした場合、送球が左右少しでもズレた時点でそれは悪送球とみなされ、ポップタイムの計測対象から外されてしまう。一方、走者の身体の長さを考慮に入れて、特に一塁側なら多少逸れてもアウトにできるのであれば、たとえその上で計測されるポップタイムやタッチまでにかかる時間が短縮されなかったとしても、盗塁阻止という最終目的に対するプラスが期待できるだろう。タッグまで持っていける範囲自体を広げられるならそれは従来よりも「速い」タッグといって差し支えない。旧来のモデルを拡張したことで「タッグ技術に注目することでより良い結果が得られるかもしれない」という示唆が得られるというわけだ。

 逆に、例えばストップウォッチで従来型とBáez型タッグとを比較して「実際にはタッグまでの時間は大差ない」と主張するのは、こうした送球の許容範囲に関する要素を無意識のうちに捨象してしまっている可能性がある。実際のところ本当に後者が優れているか否かは問題ではなく、それ以前のモデルの構築の段階で誤りが起こっているのである。このようなズレが起こったまま「データで検証」を行えば、分析のデザインミスによって真のメリットを検出できない状況に陥ってしまう。逆に言えば、これこそが状況に合わせてモデル(仮定の選択)を変更・拡張することの利点であると言えよう。

「良い」モデルとは

 最後に、野球のタッチプレーを例に取り上げたモデルの拡張に関する議論を、より一般的な文脈に持ち込んでみる。

 本来は長さを持つ走者を点Pとして扱うなど、実際には関連している事柄をあえて無視すること自体には問題があるとは言い切れない。これまでの項で説明した通り、リプレイ検証の導入以前の野球において「身体のどこかにかすりさえすればOK」は必ずしも自信をもって受け入れられる仮定ではなかったからだ。これはルールブックに何が書かれているかとは全く別の次元の話である。競技のルール変更や選手・設備の技術革新が、モデルを考える際に妥当と考えられる仮定を変えてきたからこそ、より詳細な、あるいは従来のそれとは異なる仮定・モデルを組み込んで予測を立て直す必要が生まれたと解釈すべきだろう。その意味でどちらのモデルも「誤り」ではない。

 同様に、物理学では空気抵抗や地面の摩擦を捨象したモデルがしばしば登場するし、伝統的経済学のモデルに登場する個人はたいてい将来に起こる出来事を完全に予測できるものと仮定されている。そうすることは単なる見落としではなく、解きたい問題の本質を理解するために必要な単純化である。実際、なんでも知っているてんさいムーブを長期間にわたって続ける「経済人」のモデルで説明できる現実の意思決定は数多い。

 今話題の行動経済学も、本質はこうしたモデルの拡張にある。実験から得られた人間の認知バイアスに関する知見は市井の関心を得られやすいが、これだけでは心理学を経済学に持ち込んだ、という行動経済学の要件を満たしているとは言い難い。

 前段落で例に挙げた通り、伝統的な経済学では、数式で表現されたモデルを組み立てるにあたって、

  • 意思決定を取り巻く情報(何がいくらで売っているか、自分がそれを消費した時にどれぐらいの利得が得られるかetc.)を完全に把握している

  • 「明日から本気出す」で本当に本気を出せる。すなわち、事前にやると決めたことをその時になって「やっぱり面倒くさい」と感じることはない

  • 損失・利得に対して客観的な評価を下すことができる。今持っているものを失うことに対して感じる怖さが極端でない

  • 非常に低い確率を過大評価しない。客観的に見て不利な賭けにワンチャンを感じない

などなどを仮定している。実際にはありえない、少なくとも反例はいくつも挙げることができる条件であるが、例えば企業の利潤最大化問題や、市場における消費者の行動の多くはこうしたモデルで予測されるものと概ね整合的であるから、その限りにおいては「妥当な」描写であると言える。一方で行動経済学が扱うのを得意としているのはより個々人にフォーカスされた意思決定で、インフォーマルで即座に答えを出す必要があったり、その他に考えることがたくさんあって慎重に結論を出すのが難しい場合が多い(もちろんそうでない文脈における研究も数多いが)。より「人間臭い」、客観的に見て適当と思われる選択からの系統的な(パターン化された)逸脱がある場合には、モデルを見直す必要が出てくる。この「系統的な逸脱」として、心理学領域で知られている行動性向を取り込んでモデルを改訂するアプローチこそが行動経済学の本質というわけだ。

 この「客観的に妥当とされる選択からの系統的な逸脱」を「非合理的な選択」と表現する解説をよく見るが、これは誤りと言い切っていいと思う。行動経済学が定義する「合理的」とは、モデルから予測される通りの選択を行うことを指しており、それは客観的に見て(場合によっては分析者の主観からして)正しいこととは全く別である。モデルの拡張によって現実の意思決定に沿うような予測が立てられるようになるならば、それは修正された仮定の下での「合理性」であり、従来の(伝統的な)経済学の考え方が再び利用可能になることと対応している。

まとめ 

 まとめると、単純化されたシンプルなモデルはそれ自体に問題があるわけではない。一方で説明しようとしている現実の出来事について課す仮定の妥当性については非常に慎重な検討が必要で、適切なモデル選択がなければその結果の信頼性は保証できない。データ分析において何を結果変数とみるべきかが重視されるのも同じで、単純さを求めるあまり手近に取得できる指標を評価対象に設定してしまえば群間の適切な比較は遠のく。盗塁阻止のモデリングはその一例である。

 データだって考えないと普通に嘘をつくし、それはいわゆる「数字を使って嘘をつく」、すなわち悪意をもって結論ありきで数字を扱うこととも異なる。モデルの妥当性を検討するのがかなり思考リソースを食う行為であるを鑑みると、とにかく数字を見て何かを語ろうとする行為自体が行動経済学が指摘する系統的なバイアスなのかもしれない。一方で、仮定の妥当性を慎重に議論することでこうした問題を避けられる、モデル主導の分析手法の魅力にも気づかされる。現実に起きていることを理解したいからこそ、一見すると机上の空論にも見える理論研究の設計が役に立つのではないだろうか。飽きたので今回はこの辺で。続く。

つづきません。

おまけ

ミリオン再生おめでとうございます。そこそこ一般知名度も高い『さすらい』に比べるとあんまり伸びてないんですけど、これオリジナルの録音以上に好きなんですよね。民生さんは人差し指でしかキーボードを押せないので一人多重録音であんまり鍵盤を押し出したアレンジをしないんですけど、ライブテイクになるとギター一本なのもあってかなりキーボードが際立つ音作りをしてくる気がします。ギター2本前提でアレンジされた昔の曲をキーボードで再現してきたりも魅力なので、やっぱりライブに行くといいなあと思います。

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