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ひとりで頑張ろうとしすぎていた

5月に新しい場所で働くことを決めて、がむしゃらにやるぞ!と決めていた。

めちゃくちゃ響く選択だったし、やる気に満ち溢れていたのに、6月あたりから足がよくわからない菌に感染して動けなくなったり、熱を出したり、口唇ヘルペスができたりで体調を崩してばかりで、7月半ばにはまともに仕事するのが辛くなってしまった。

本当にやりたいと思っていても身体が動かない、ということを初めて体感した。なんやかんや、身体が動かない時は響いてない時だし、魂がエネルギーを持っていれば身体はついてくるものだと思っていたけど、どうやら違うらしいと気づいた。

自分の中で「響く未来に進むこと」と「エネルギーが湧くことをすること」は同じだと思っていた。今回の体験を通じて、その違いに気づくことができた(認めるのが嫌だったしめっちゃ痛みを伴っている最中だけど)。

響く未来に進むことは素敵なことだけど、その全てを自分ひとりでやろうとしていたのかもしれない。もしくは人とやろうとしても、すべての責任は自分が背負う必要がある、そして自分が止まってしまうとその流れは止まってしまうと、無意識に思っていたような気がする。

響く未来に進むことは魂に響いている、けどそこに向かう道のりの全てに対して、持って生まれたこの肉体が響いているわけではない。エネルギーが湧くこととは「身体の」エネルギーが湧くこと。身体のエネルギーは無限ではなくて、湧いたり消費されたりする。消費するのが悪いことではないけど、使いすぎたら枯渇してしまう。

人は響く未来に進むために生きていると思う。場合によってはエネルギーが湧かないことでも、響く未来に進むためには、消費しながら進んでいくことも必要だと思う。だけど、実は周囲には、自分ではエネルギーが消費されてしまうことを、身体から響いて、エネルギーに満ちながらやれる人がたくさんいるかもしれない。

響く未来に進むということは、その道のりを自分だけの力で進まなければいけないということではない。どこかで、その道のりを自分だけで進んだんだよ、偉いでしょ!俺のおかげだよ、褒めて!と、外側に認めて欲しかったのかもしれない。認めてもらうという動機では、とっくに身体にエネルギーが湧いてこないと気づいていたのに。

6,7月は身体を置いてけぼりにしていたので、それに気づいた8月はとにかく身体を労ってあげたい。響く未来とかいったん脇において、頑張ってくれてありがとうね〜と労いまくりたい。エネルギーが消費されることはやらない(引っ越しをしたいのでそこだけ頑張る)。湧くことはいくらでもやってよし。

そして、よし、またエネルギー湧いてきたぞと身体が教えてくれたら、今度はみんなのことも頼りながら、一緒に響く未来へいくぞ!と決めた。

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