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王家の宝石 | ブルガリアのフルール・ド・リス ティアラ

概要

フルール・ド・リスは、アヤメの花をモチーフにしたマーク。

王権的あるいは表象的な意味を持つ場合があり、紋章や良いとこの子が行ってそうな学校の校章に使われたりする(後者は個人的偏見)。

フルール・ド・リス
Frater5 • CC BY-SA 3.0
Wikimedia Commons

名称

THE BULGARIAN FLEUR-DE-LIS TIARA

起源

ブルガリア国民議会が、当時のブルガリア公妃へ結婚祝いとして送った。
(諸説あり。詳細は後述)

ブルガリアの国旗カラーであるエメラルドルビー、そしてダイヤがあしらわれている。

ブルガリア国旗
Skopp/ Public domain
Wikimedia Commons


宝飾メーカー

Köchert

こちらのシシィスター(ヘアアクセサリー)を作った宝石メーカー。

オーストリア皇后エリーザベト
フランツ・ウィンターハルター画
Public domain / Wikimedia Commons


歴史

①マリヤ=ルイザ・ブルボン・パルムスカ(ブルガリア公妃)

Unknown author
Public domain / Wikimedia Commons

1893年、時のブルガリア公フェルディナンドと政略結婚。議会からティアラを贈られました。
(夫からのウェディングギフトとする説もあり)

先述の通り、こちらのティアラ、ブルガリア国旗の色をした宝石があしらわれています。
更にアクセサリーやサッシュもブルガリアンカラーでまとめたコーディネートの肖像画が残っています。

Philip de László
Public domain / Wikimedia Commons



夫婦仲は良くなかったようですが、公妃たるものブルガリア公の血統を残さねばということで夫との間に4人の子供をもうけました。

4人目の子を出産した後、肺炎によりこの世を去りました。

[補足]ブルガリア王室の誕生

マリヤ・ルイザの死から9年後。
夫フェルディナントはオスマン帝国のゴタゴタに乗じて、自分がツァール(王)になることを宣言、ここにブルガリア王国が誕生しました。

ブルガリア公改め
初代ブルガリア国王フェルディナント1世
(写真はパブリックドメイン)



ここに至るまでの経緯をサラッと。

ブルガリアは長年オスマン帝国の支配下にありましたが、1877〜78年の露土戦争でオスマン帝国が敗北したことにより"ブルガリア公国"として自治権を得ていました。
(公国=王族ではなく、貴族が治める国のこと)

ブルガリア公国の位置(濃い緑)
このW3C-unspecified ベクター画像はInkscapeで作成されました . • CC BY-SA 3.0
Wikimedia Commons


しかし先代ブルガリア公はクーデターにより失脚
そこでオーストリア生まれの名家出身・フェルディナントが、2代目ブルガリア公に選出されていたのです。

帝国主義時代のバルカン諸国は、このように列強各国が(勝手に)決めた国家元首が送り込まれる事がありました。

列強各国の思惑がスケスケな
ブルガリア公人事
(各肖像写真はパブリックドメイン)



ただ野心家のフェルディナントは、ブルガリア"公"という肩書では満足できなかったのでしょうか。
先述の通り、宗主国であったオスマン帝国の隙をついて 独立して自らになることを宣言してしまいました。

というわけで、ここからはブルガリア王族となったフェルディナントの子孫の話が続きます。

近代ブルガリア王国ができるまで


②イオアンナ(ブルガリア王妃)

Unknown author
Public domain / Wikimedia Commons

1930年、①マリヤ=ルイザの長男ボリスと恋愛結婚。

結婚式においてティアラを着用しました。
イオアンナはイタリア王の娘であり(イタリア語名はジョヴァンナ)、結婚式にはムッソリーニも出席していたそうです。


ブルガリア王室に嫁いだイオアンナ。
しかし童話のように「いつまでもしあわせにくらしました」とはいきませんでした。

∟夫の不審死

1943年、夫が急死。
ドイツでヒトラーと会談し、帰国した直後のことでした。



夫は当時ボリス3世としてブルガリア王になっていたのですが、第二次世界大戦が始まると ヒトラーの接近を受け、枢軸国側として参戦します。

ヒトラーは
エーゲ・マケドニア(地図赤色)の割譲をちらつかせて
ブルガリアに枢軸国参加を迫りました

(地図: Philly boy92 CC BY 3.0
Wikimedia Commons )



しかし夫ボリス3世はドイツ軍によるソ連侵攻への参加やユダヤ人追放政策を拒否するなど、反ナチス的な行動もありました。

そのためブルガリアでは、ボリス3世の死をヒトラーによる毒殺だとする噂が立ったそうです。

unsplash より





真実は闇の中ですが、国王がいなくなったとあっては急ぎ新しい君主を立てなければいけません。

新国王には6歳の息子がシメオン2世として即位。
先代王の弟キリルが摂政を務めることになりました。

少年時代のシメオン2世
ブルガリア王国は大昔にも存在しており、
当時シメオン1世という王様がいたため
この坊やはシメオン"2世"になります。

unknown author / Public domain
Wikimedia Commons

∟ブルガリア王室の終焉

しかしこの体制も長くは持たず。
第二次世界大戦末期、ブルガリアはソ連に攻め込まれます。

1944年9月、ブルガリアに入るソ連軍
Public domain / Wikimedia Commons



摂政キリル及び政府関係者は処刑。
イオアンナと シメオン2世含む2人の子供達は自宅軟禁ののち、48時間以内の国外退去を命じられます。
1946年9月16日のことでした。

こうして、ブルガリア王室はわずか3代でその幕を閉じました─。

1946年9月27日、イオアンナ父がいたエジプトを目指し
途中駅のイスタンブールで列車を降りる
イオアンナとシメオン2世。

実はブルガリアとトルコの国境で、機関士が
「王族を国外に追放する手助けはできない」と言って
列車を降りてしまい、トルコ側が急遽代わりの列車を
用意したと言うエピソードがある。

Toronto Public Library
Object No. TSPA_0035147F
Public domain

③マリヤ・ルイザ・ブルガルスカ

Wikipediaでは少女時代の写真しか見当たらず…
Public domain / Wikimedia Commons

ブルガリア王室は消滅しましたが、ティアラの歴史はもう少し続きます。

②イオアンナの長女。
亡命生活中、ドイツの貴族と出会い結婚。
イオアンナは亡命の際ティアラを持ち出していたようで、長女は結婚式でこのティアラを着用しました。

④マルガリータ

Gray Geezer CCBY-SA 4.0
Wikimedia Commons

シメオン2世の妻。
スペイン貴族の娘で、元ブルガリア王室一家がスペインに亡命していた際シメオン2世と出会い、結婚。
結婚式にてティアラを着用しました。


1996年、夫婦でブルガリアに帰国。
夫シメオン2世は2001年〜2005年までブルガリアの首相を務めました。



また元王族として外国との交流も行っています。
先に行われた英国王チャールズ3世の戴冠式にも、夫婦で出席しました。

チャールズ国王と握手するマルガリータ。
中央のおじいさんがシメオン2世。

戴冠式と言えば、こちらのニュースに出ている「秋篠宮ご夫妻が交流したブルガリアの元国王夫妻」とは、シメオン2世とマルガリータのことです。


おわりに

ティアラは④マルガリータが結婚式で着用して以来、表には出ていないそうです。
一説によると、もう実際につけるのは難しいくらい壊れやすい状態になっているのだとも。

複雑な歴史を見てきたブルガリアのティアラ、ぜひ一度カラー写真で見てみたいです!


本日もご覧くださりありがとうございました。

参考

・トップ画像: photo AC

・THE COURT JEWELLER
THE BULGARIAN FLEUR-DE-LIS TIARA

・Royal Central
Bulgarian Royal Tiaras
Giovanna, Last Tsarina of Bulgaria


・Wikipedia
Diamond Crown of Bulgaria
フェルディナント(ブルガリア王)
Boris III of Bulgaria
ジョヴァンナ・ディ・サヴォイア
マリヤ・ルイザ・ブルガルスカ
Margarita Saxe-Coburg-Gotha

kingsimeon.bg



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