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The Double〜シアトルの野球を救った一打(前編)

1995年秋―シアトルの街からメジャーリーグ(MLB)のチームが消えようとしていた。球団創設18シーズンでプレーオフ進出はおろか、勝率5割を超えたシーズンですらわずかに2回しかない弱小チーム。老朽化した本拠地は閑古鳥が鳴き、チームの収益状況も芳しくなく、新球場の計画も頓挫しかけている。全てがチームのシアトルからの移転に傾きかけていた。

あの一打までは。

弱小球団シアトル・マリナーズ

シアトル・マリナーズは、1977年にアメリカン・リーグの球団拡張に伴い、創設された。シアトルには元々パイロッツというチームが1969年に創設されていたが、経営難でわずか1年でウィスコンシン州ミルウォーキーに移転(後のミルウォーキー・ブルワーズ)してしまっていたため、マリナーズは地元住民にとっても待望のMLBのチームだった。

しかし、拡張球団がすぐにMLBで勝てるほどの戦力を持ち合わせているはずもなく、マリナーズは創設から14シーズン連続負け越しといきなり低迷する。
とはいえ、低迷は長く続いたものの、後にアメリカ野球殿堂入りを果たす外野手ケン・グリフィーJr.を1987年のドラフト全体1位指名で、トレードでこちらも同じく後に殿堂入りを果たす左腕ランディ・ジョンソンをモントリオール・エクスポズ(現ワシントン・ナショナルズ)から獲得するなど、着実にチーム力は向上していった。その結果、1991年には83勝79敗で、創設15シーズン目にして初めてシーズン勝率5割以上を記録する。

移転騒動

チーム力の向上とは裏腹に、1990年代初頭頃からチームの移転に関する噂が出回るようになる。先の低迷期、さらには野球場専用として作られていない本拠地キングドームの設計(フィールドから観客席まで非常に遠かった)がファン離れを引き起こし、観客動員数が低迷。おまけにテレビ放映権などによる収益もMLB全球団の中でも最低とチームの運営面では窮地に立たされていた。上記のような状況であったことから、当時のオーナーであるジェフ・スマルヤンがチームの売却・移転を検討しているのではないかと度々噂になった(特に当時MLB球団がなかったフロリダ州セントピーターズバーグは熱心に誘致活動をしていたとされる)。

移転が噂される中、1992年に当時任天堂の社長だった山内溥率いるグループがマリナーズを買収したことで、当面はシアトルに残ることが決定し、移転騒動は一旦幕を閉じた。
とはいえシアトルに残るにしても、完成から既に20年近くが経過した本拠地キングドームは老朽化が進んでいた。1994年には屋根の崩落事故を起こしていて、キングドームに代わる新たな野球専用の球場が必要と考えた山内らのグループは、新球場の建設を目指し、シアトルのあるキング郡、ワシントン州政府に対して公的出資を求め、働きかけた。

ところが、1995年9月19日のキング郡の住民投票で、マリナーズの新球場建設に伴う0.01%の消費増税案が否決され、公的出資が事実上困難な状況となってしまう。山内らのグループは1995年10月30日を最終期限とし、代替の公的出資案が示されなければ、チームを売却すると表明。マリナーズは再び移転の危機に晒されることとなる。

Refuse to Lose

前年のストライキの影響で、試合数が144試合に縮小された1995年シーズン。マリナーズは5月にグリフィーJr.がフェンスに激突した際に手首を骨折し、長期離脱を余儀なくされた。しかし、エドガー・マルティネス、ティノ・マルティネス、新加入のジェイ・ビューナーがグリフィーJr.不在の打線を支え、さらにはMLBを代表する豪腕に成長したジョンソンの活躍もあり、グリフィーJr.という精神的支柱とも言える存在を失いながらも、なんとか勝率5割近辺を維持しながら、夏場を迎えていた。

しかし、マリナーズと同じアメリカン・リーグ西地区に所属するカリフォルニア・エンゼルス(現ロサンゼルス・エンゼルス)が開幕から順調に勝ち星を積み上げ、マリナーズら他球団との差をじわじわと拡げていく。
8月2日時点で、マリナーズとエンゼルスのゲーム差は13にまで拡がった。これ以上のゲーム差からの逆転優勝は、長いMLBの歴史でもわずか2例(1914年ボストン・ブレーブス、1978年ニューヨーク・ヤンキース)しかなく、さらに試合数が例年よりも少ないことも相まって、エンゼルスの地区優勝はほぼ確実、少なくともマリナーズの地区優勝は絶望的な状況だった。

だがここから、プレーオフに一度も出場したことがないマリナーズによる執念の追い上げ劇、"Refuse to Lose"が始まる。

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8月15日にグリフィーJr.が復帰。ようやくチームに明るいムードが戻ると、9日後の8月24日のヤンキース戦を終盤2点ビハインドから追いつき、最後は復帰したばかりのグリフィーJr.のホームランで劇的なサヨナラ勝ちを飾る。
24日終了時点でエンゼルスとはまだ11.5ゲーム差あったが、このサヨナラ勝ちがチームに大きな勢いをもたらすこととなる。日替わりでヒーローが登場し、どんなにビハインドで試合終盤を迎えても、負けることを拒み、試合をひっくり返し続けるマリナーズ。そんなチームの姿を見たファンたちは、いつしか"Refuse to Lose"のスローガンを掲げ始める。

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"Refuse to Lose"マリナーズはシーズン最後の36試合で25勝を挙げる快進撃を見せる。エンゼルスが8月にチームのリーダー的存在であるゲーリー・ディサーシナを怪我で失い、二度の9連敗を経験するなどで大失速する中、両チーム間で最大13あったゲーム差はみるみる縮まり、マリナーズはついにエンゼルスの尻尾を捕まえ、同率のままシーズンを終える。
そして、両チームは地区優勝をかけたワンゲームプレーオフに臨む。

Game 145

1995年シーズンの145試合目。勝てば優勝、負ければシーズン終了というまさに天国と地獄行きを決める一戦を、マリナーズはエースジョンソンに託す。
エンゼルス先発はマーク・ラングストン。かつてはマリナーズに所属し、低迷した80年代を支えた投手だ。1995年の時点で35歳ながら15勝を挙げ、この大一番を任された。
奇しくも、この両先発はエクスポズとのトレードの交換相手同士でもある。

試合は5回にマリナーズがビンス・コールマンのタイムリーで先制するも、1-0の緊迫した投手戦のまま、7回に突入する。

7回、マリナーズはヒットと死球などで2アウトながら満塁のチャンスを作ると、ルイス・ソーホーが打席を迎える。決して打撃に定評のあるタイプの選手ではなかったが、コンタクト能力に優れ、この年自己最高の打率.289を残していた。

ラングストンのボールにバットを折りながらもソーホーは何とか喰らいつく。力のない打球だったが、ファーストJ.T.スノーのミットをわずかにかすめ、ボールはライト線を転々。この間に満塁の走者が全員ホームインすると、さらにエンゼルスの中継が乱れ、ソーホーもホームイン。雄叫びをあげ、ガッツポーズを繰り返すソーホー、天を仰ぐラングストン。キングドームに詰めかけた超満員の52,300人のマリナーズファンが熱狂する中、1995年シーズンの両チームの明暗がくっきり分かれた象徴的な瞬間である。

8回にも4点を奪い、試合を決定付けたマリナーズ。最後はジョンソンがティム・サーモンを三振に斬り、試合終了。奇跡という言葉が相応しい快進撃と19年間にもおよぶ長い長い道のりを経て、マリナーズはアメリカン・リーグ西地区の王者に輝き、創設19年目にして初めてプレーオフへの切符を掴み取った。

Now the left-hander ready... Branding Iron hot, the 1-2 pitch….
K inserted, it’s over!!! Right over the heart of the plate!!! Randy looks to the skies that is covered by the dome and bedlam! As the Mariners now erupt! Nineteen long years of frustration are OVER!!!
-Dave Niehaus

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(後編に続きます)

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