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【シアトル的迷選手で行こう!】第5回 バッキー・ジェイコブセン

野球の世界最高峰の舞台であるMLB。球界、そして時代を代表するような大スターたちが華々しく活躍し、名選手と呼ばれる裏では、世界最高峰の舞台まで辿り着くだけの才能は持ち合わせているものの、イマイチ残念な部分が抜けきれず、迷選手と呼ばれる存在もいる。そんな選手たち、特にシアトル・マリナーズ に在籍したことのある迷選手たちにスポットライトを当てていく。第5回はバッキー・ジェイコブセン。

(第4回はこちら)

プロフィール

ラリー・ウィリアム・ジェイコブセン(Larry William "Bucky" Jacobsen)
1975年8月30日生、ワイオミング州リバートン出身。ポジションは一塁手/DH。
1997年ドラフト7巡目指名でミルウォーキー・ブルワーズ入団。
MLBでのプレーは2004年のみ

長いマイナー生活

長打力を買われ、1997年ドラフトでプロ入りを果たしたジェイコブセン。翌1998年にはA級で27本塁打を放つ活躍を見せるも、以降は上位のマイナークラスの適応に時間がかかってしまう。25歳となった2001年にようやくAAA級まで到達するも、メジャーリーグの舞台は近いようで遠く、メジャーリーガーになれないまま月日が過ぎていった。

2004年にシアトル・マリナーズとマイナー契約を結んだ時にはジェイコブセンは28歳となっていた。マイナー生活も8年目。メジャーリーガーになる夢を諦め、活躍の場を他の国に求めたり、あるいは野球というキャリアを諦めてしまってもおかしくはない年齢だったが、それでもジェイコブセンは諦めなかった。

あの夏のジェイコブセン

2004年のマリナーズは、ちょうど1995年から続いていたチームの黄金期が終焉を迎え、開幕から負けに負けまくっていた。アメリカンリーグ西地区でもはや別のリーグを開催しているのではないかと思われる程にどん底に沈み、7月中旬には首位を走っていたテキサス・レンジャーズとは17ゲームもの差がついていた。

ここまで清々しいほどに負け続ければ、積もりに積もった残り試合は特に意味を成さない。選手達はなんとか個人成績を少しでも押し上げられるように努め、監督・コーチ陣は最低でもシーズン中の解任だけは免れるよう最低限の仕事をし、地元シアトルのファンは絶望的なチーム状況を目の当たりにしないために地元紙のスポーツ面から目を背けるようにした。とにかく2004年のマリナーズというチームに希望の2文字は無かった。

そんなマリナーズの悲惨な状況とは裏腹に、ジェイコブセンは28歳、マイナー生活8年目にして自己最高のシーズンを送る。開幕からホームランを量産し、7月までに26本塁打、OPSは1.083と驚異的な打撃でAAA級の投手たちを破壊。ホームラン競争でも優勝し、フロントへの猛アピールを続けた。

マイナーで打ちまくるジェイコブセンにマリナーズフロントが一抹の希望を見出したのは想像に難くない。7月15日、ついに彼を念願のメジャーリーグの舞台へと昇格させたのだった。

ジェイコブセンは早速その希望を結果という形で示す。

デビュー2戦目の7月17日にメジャー初本塁打を放つと、翌18日には2試合連続の本塁打でチームの勝利に貢献。その後もジェイコブセンは怪物的なパワーを発揮し、7月は14試合の出場ながら5本塁打、OPS.971と好成績を残し、マイナーのホームランキングの名は伊達ではないことをいかんなく証明した。

もはやチームを応援する要素を失った2004年のマリナーズにおいて、ファンにとって彗星の如く現れ、活躍するジェイコブセンは小さな希望となった。さらに苦労人というバックグラウンドと、6フィート4インチのガッシリとした体型に、大きく発達した二頭筋、スキンヘッドに赤髭と少々強面なルックスがファンの心を鷲掴みにし、一躍ジェイコブセンはシアトルの人気選手となった。筆者も幼少期に先述の7月18日の試合を現地で観戦したが、デビュー3試合目ながらもジェイコブセンへの歓声が一際大きかったことを今でも覚えている。

8月も4本塁打を放ち、わずか159打席で9本塁打を記録したジェイコブセン。遅咲きのパワーヒッターに全てのマリナーズファンが明るい未来を想像し、今年のことは一旦記憶の外に追いやり、来季以降の戦いに希望を持ったのは無理もない。

しかし秋に差し掛かると、マイナー時代からジェイコブセンを悩ませていた膝の問題が顕在化する。打撃にも影響を与えていたことからマリナーズフロントはジェイコブセンに無理をさせず、9月5日以降の試合を欠場させる決断を下した。

そしてジェイコブセンが再びメジャーリーグの試合に出場することはなかった。

破れた夢

ジェイコブセンの膝の状態は思いの外悪く、関節鏡視下手術を受ける必要があった。

ようやく掴んだメジャーリーガーの夢。今までの努力を失いたくないと焦るあまり、リハビリで無理をしてしまったと後に語るジェイコブセン。完治しないままマイナーで実戦に復帰するも、自慢のパワーが影を潜めてしまい、結局2005年シーズンはメジャーで1試合も出場することはできなかった。

“I felt like everything I’d worked for was dwindling away”
-Bucky Jacobsen

そのままマリナーズから解雇されたジェイコブセンは、2006年にシカゴ・ホワイトソックスのスプリングトレーニングに招待されるも、エキシビジョンマッチにわずか1試合出場しただけでクビを切られてしまう。
2006年時点で30歳と野球選手としては高齢である点、また膝に爆弾を抱えている点がジェイコブセンとの契約に各球団が二の足を踏む要因となり、結局メジャーリーグ傘下のチームとすら契約することは叶わなかった。独立リーグのロングアイランド・ダックスでプレーした後、2007年にジェイコブセンは現役を退いた。

その後

現在、ジェイコブセンはシアトルのスポーツラジオ局で冠番組を持つほどの人気パーソナリティとなっており、セカンドキャリアは順調のようである。

ジェイコブセンのメジャーリーガーとしての輝きはほんの一瞬ではあったが、マリナーズファンに強烈なインパクトを残したあの夏。記録には残らなくとも、記憶に残る選手であったことは間違いない。

Photo by hj_west

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