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「なぜ私だけこんな目にあわなくてはならないのか?」幸福になるための論理③不公平感編その1

・不公平感を感じていませんか?

 なぜ、「私だけ」なんだろう・・・
 この感情、私たちが生きづらいと感じる多くの場合の原因になっていると思いませんか?
 「なぜ、私だけがこんなに仕事をしなければいけないんだろう。あの人はあんなに楽してるのに」
「なぜ私だけが負担を負わなければならないのだろう」 etc
 場合によっては、このような発想から「世界か悪い。こんな世界は壊れてしまえ」という感情まで行き着き、悲惨な殺人事件が起こってしまうこともありました。
 家でも家族との関係で、仕事では同僚や上司部下との関係で、ネットではSNSのタイムラインで流れる他者の生活の様子を見て、このような不公平感を抱かない人の方が少ないのではないでしょうか。
 この、「私だけ」という不公平感の正体をつきとめ、それを感じずに生きられたら、他者に優しく、よりおおらかに生きられるとは思いませんか?

・自分の不公平を感じていた話(不公平感を克服する人生だった)


 かくいう私も、このことを真剣に考えるまでは、不公平感とともに悶々と生きてきた人生でした。
 小学生くらいまでは他者との比較などせずにのらくら生きてきましたが、勉強をはじめあらゆることに序列がつけはじめられる中学生以降から、他者がどのような態度で生きているかを観察し、それとの比較で自分を評価するようになってきました。
 「あいつは宿題もせずにゲームばっかりやりやがって。やりたいことを我慢して勉強するから、社会で役に立つ人間になれるんだろうが!」と、好きなことを好きなようにできている(している)子をうらやましがり、僻んでいた時期が長くあります。すでに不公平感を中学時代から抱えていたのです。

・不公平感の正体


 この感情の正体は何なのでしょうか。
 今の私の答えは、以下のようなものです。
●「不公平感」とは、次のAとBの感情の葛藤(せめぎ合い)による苦しみである。
A 私はこんなにも大切なもの(時間、労力、お金など)のを支払っているのに、受け取るものが他者が同様にしているのに比べ少なすぎるという「嫉妬」の感情=損得勘定から来るもの
B 社会での「理想の人物」として教えられ続けてきた、「自分の利益のために与えるのではなく、与えること自体を喜びに感じる人」として見られたい(ありていに言えば、「いい人だと思われたい」)
そう、不公平感の正体とは、「損得勘定から来る嫉妬」と、「いい人と思われたいという願望」の狭間で揺れ動く言いようのない怒りや悲しみ、苦しみなのです。
私は、前職場での仕事(税関係の役所、公務員)において、いい人と思われたいがために、事務所で鳴る外線を自分1人で全部とるつもりで(自分の現在の業務の繁忙にかかわらず)取ったり、自分の担当でもない雑務を自分から手を上げて抱えたりしていました。その結果、「こんなに頑張っているのにこの程度しか感謝されないのか」という強い不公平感がどんどん大きくなっていきました。自分で選んで仕事を抱えているにもかかわらず、その状況に不満を持っていたのです。

・自分を受容する話(自分からベクトルをはずす)


 これに対し、よくある自己啓発本の類いの結論はこうです。
 「全て自分が選択しているのだから不満を言うのはおかしい。不満があるのなら取り組み方を変えるか、その場から離れればよいだけの話である。」
 これは確かに正論なのですが、私は常々この結論に違和感を感じていました。
 いやいや、「いい人になりたい」と思う感情は普通のものだろう。現にこの日本社会は、いい人、立派な人になりなさいと暗に皆に強制しているではないか。それから、頑張っただけに見合う見返りがほしいという感情も、生物として自然のものだろう。
 そして、私は「不公平感」を抱くことはこの日本社会で産まれ生きてきた自分にとってはごく自然なものであり、特別なことでもないし、いけないことでもないと考え、「不公平感」を抱く自分を受け入れ、許しました。
 そうしたら、あるとき急に体も心も楽になり、「不公平感」を感じる状況を冷静に分析しようという発想に至りました。
 この自己受容、簡単にできる話ではありませんね。私たちは自己を否定して成長することが人間として正しいことであると学校教育はじめ偉人伝や立派(なふりをしている)父親などから教えられて生きてきました。自分を認めるという考えは社会では教えられていないのです。

・自己受容するために

 だから私はこの呪縛(自己否定文化)から脱却するために、「自分がここにいる理由」を考えました。
 当たり前の話ですが、私たちは親から産まれます。そしてまず家族という社会に出会い、次に地域という社会に出会います。
 ここでポイントなのは、この親や地域は自分の意思で選択していないということです。どこの誰の子供で、どういう個性のある子供として産まれるかを選択していないのです。誰1人、「このわたしとして産まれよう」という選択をして産まれてきた人間(生物)はいないのです。
 だから可能性としては、親がネグレクトであり、地域は限界集落地であり、おまけに四肢のない障害をもって産まれるという可能性もあるのです。
「どのような人として産まれるか」という選択をしていない以上、ここに責任があるはずもありません。「わたし」として産まれたことに、私には責任はないのです。
そして、生きていくにあたっては、物理的な地域にも縛られます。寝泊まりし、飲食できる環境が必要で、これが子供にとっては家族であり、地域です。どのような私として産まれるかを選択できないのと同様に、どのような環境で生きていくかを少なくとも子供の間は根本的には選択できないのです。
さらには、自分で選択してもいない「わたし」と「家族」と「地域」という自分では選択できない要素が複雑に絡み合って、私たちは大人になっていきます。だから、大人である私が持っている個性の相当程度を規定している要素のほとんどを、自分では選択していないのです。
 つまり、私たちは、世界の事象に対して自分がどう反応するか、自分の責任で選択しているような気がしていますが、その選択をする「わたし」はかなりの部分自分で選択していないものからできているのだから、自分の反応もかなりの部分は自分で選択していないことになります。
 よって、自分の選択について、その全てが自分だけの責任であるとは言えないのです。
 ここまで考えると、自己受容することが可能となるでしょう。つまり、今の自分の個性が自分で好きか嫌いか、理想と近いか遠いかはともかく、自分を構成する要素の大部分は自分で選択していない。そしてどこまでいっても他人にはなれないのだから、まずは自分を受け容れる以外に選択肢がない。
 そう、自分が産まれたことの不思議を考えると、当然に自己受容に行き着くのです。

・次回は不公平感を乗り越える話(と参考文献の紹介)

 さて、これで「不公平感」を感じている自分は受容できた。そして不公平感の正体は分かっている。だったらあとは一つずつ「これからどうすればよいか」を考えるだけですね。次回は不公平感を感じない(乗り越える)ための想像力について書きます。また、今回と次回の思考の参考にした文献の紹介とおすすめをしたいと思います。

 それではまた。

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