誰かのためになること

調子が悪くて何だか体から思うように動かない時って誰でもありますよね。

そのような日は、どう過ごされていますか?

お仕事があったり、学校、家事、育児と、日常生活を送っているとどうしても、やらざる終えない出来事が降ってきて、自分の体を休めることなど二の次になってしまいますよね。


「焦る気持ち」は厄介で、どこか他の見えない場所に放り込んでいられたら、気持ちが少し楽になるかもしれません。

ただ、放り込んだ物なので、器は無限の大きさはなく、物が増えていくとまた新しい器を用意するか、中にあった物を取り出して処分するなり売るなり、分けたり。

そうしていかなければ、どんどん億劫な気持ちや焦りが増大していくと感じます。


コロナ禍で自宅で過ごされる方が多い中、使わなくなった物の整理、断捨離をする大切さを実感した今日この頃ですが、なかなか手放せない手元に置いておきたい物は、いくつかあるはずです。

強い気持ちで、かつて自分の心を勇気づけてくれたであろう、楽しませてくれた、助けてくれたであろうありとあらゆる物を、衣服日用品だったり、趣味のアイテム、プレゼントだったり。

そういった物を、自分にとって必要?必要じゃない?と心の声に従って選別すると沢山の手離さなければいけなかった物の山ができているはずです。

中でも自分が、こだわったテーマについては周りと比べると量の多さに驚くかもしれません。

私の好きだったお気に入りは、今どうなのでしょう?
かつて色鮮やかにキラキラして見えた魅力的だったはずの品々がくすんで見えるようになったら、それは捨て時と耳にしますよね。

わくわくする?ときめいたりする?

捨てるとなると、大切にしていたから。と一抹の寂しさを覚えるかもしれませんが、一度放してみたらどうでしょうか。

私は、部屋の大部分を占めていたこだわった物を捨て過ぎてしまい、「あっ、お皿がない。」とミニマリスト計画に失敗して、物を買い直すはめに…


この場合、料理した物を乗せるお皿が丁度いいのに限って捨ててしまった。

買い直しで手に入りましたが、本当に必要だった物は、誰かから得たり、回りに回って、自分の手元に戻って来ると思います。

それが頭に入れていた知識だったり、記憶だったり。配信された世界を見て、感銘を受ける。共感をする。心の揺れ動きを感じた時に、「あの時、手放した物はこの事に気がつかせるためだったんだね。」と腑に落ちることもあるはずです。


ご自身の心に問う作業をした時に、純粋に感じた率直な意見、気持ちをご自身で見つめてみて、いらない考えは捨てて。心地良い物を取っておく。


縁があれば、必ず何らかしらの形で戻ってきます。

そこに、一つ加えてほしいことが。いつも想い巡らせていたご自身の気持ち、長年の行動パターンも一度捨ててみたらどうでしょうか。

動けなくなる要因の一つに、目の前にあるしなければいけない事を目の当たりにする度に、億劫になったり、行動できない自分にイラついて、自信喪失しやる気が起こらなくなったり。

「こうでなければ、いけない。こうあるべきだ。」を一度、脇にずらすことにより、少し落ち着いた気持ちが取り戻せるかと思われます。

そこで、目の前にあるごみを拾って、ゴミ箱に捨ててみる事から始めてみませんか?

家でもできるお片付け。お掃除。それだけでも構わないと感じます。

掃除が億劫な方は、出てしまったごみの一つ。一つだけでもいいと思います。ゴミ箱がなかったら、レジ袋でもいいです。もとある場所に戻せなくなったごみになった、かつては大切にしていた物を思い出をちょっとずつ、ちょっとずつ、捨てるということで返してあげる。

その作業が出来ると、気持ちが楽になる自分が近づいてくるように思えます。

外に落ちている缶やペットボトル、誰かが出したごみ。ちゃんと設置されたゴミ箱に自ら率先して捨ててみる。

誰かが何かをしてくれているから、街の景観が損なわれないでいられる。

コロナで今年の4、5月辺りは、ウィルスとのつきあい方に慣れておらず、外出制限、まだ先行きが見えなく不安立ち込める中、家族と仕事とどう向き合っていくか考える、考えさせられる方々が多かったと感じます。

そのような時は、自分だけで一杯一杯で他の人の気持ちになって考える。寄り添うこと等、到底できません。

譲り合いなんて、まして生死が掛かった世界では難しいことなのだと、身に染みて実感したと思います。

マスクやアルコールが店頭から消え、トイレットペーパーまでが値上げされ売られる仕舞いです。

我先にと、人間の浅ましさが、もうこれでもか。と見えた瞬間を目にしてきたかと感じます。

私も、その中の一人で見つけたら何としても手に入れなければ。と必要以上にマスクなど買い占めたように思います。

生きることは必死になって当然です。何ら悪いことなどありません。


必要外、外出禁止要請が出されていたあの時期、体力維持の為に外に出た私は、ある老夫婦を目にして驚きました。

皆が電車の手摺や、スーパーのカートも触りたくなく気にしていた時に、外に無造作に捨てられた空き缶やごみを拾って歩いていたのです。

誰かが口にしたであろう、呑み口から滴り落ちた缶コーヒー。糖分でベタついた炭酸飲料。一つ一つを持参した袋の中に入れていく姿に感動の余り鳥肌が立ってしまったのを今でも忘れられません。

人それぞれ考え方の違いがあっても、皆が一様に同方向に向かう中で、信念を曲げることなく私達が出来なくなったことを影で支え、環境を整えて下さる方々がいらっしゃるという事実。

仏教用語では陰徳というのでしょうか。

誰かの評価や称賛を期待するのではなく、見ていない所でこそ思いやりを持って行動する。

徳を積むとなると、何か修行めいて難しかったり 厳かだったり険しかったり、人それぞれイメージされる感じ方は違いがありそうですが、見られていない所で協力する。何かや誰かのためになることを実践する心意気は、粋な働きのように思えてなりません。

スーパーのレジで並んでいると、「僕この中に小銭入れたい。」そんな声が聞こえたので様子を見ると、小学校低学年の男の子。前に並んでいた親子なのですがお会計の際に、「遊びじゃないのよ。」そのようなお母さんの声に「誰かのためになると思う。」男の子は真剣な顔をしてそう言い、お母さんはお金を渡しました。

お釣りで余った硬貨を嬉しそうに入れ、誇らしげな表情が印象的で、気持ちが大切だなあと感じました。

通りすぎてしまういつもの光景に、目に留まった優しさの始まりに、温かい目で見守りたいなぁと思う瞬間です。

誰かのために何かをするとは難しいことではなく、ありふれた日常風景の中にも支え支えられて、守り守られて、皆誰かのためになっているのではないかと思う今日という日を過ごせたことに、ありがたさを感じました。


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