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ガラス片の中の海 -『no public sounds』感想#5

『no public sounds』--音の多彩さにわくわくして、歌詞の余白・曖昧さの中でいくらでも泳げるようなアルバムだと思う。

このアルバムや君島大空の音楽を「おもちゃ箱」と言うコメントをいくつか見たけれど、その通りだと思う。曲が変わる度に初めの一音に心躍る。たくさんのジャンルの音楽を聴いて取り込んできたことが感じられるし、この人はそこで見た景色を惜しげもなく見せてくれるのだなと思う。

歌詞の中には、自分の中にもあるけれど見ようとしなかった感情が、自分では思いもしなかったような角度から描かれていたりする…ようにも感じられるし、実は私が見たいだけの幻想なのでは?歌詞にそういう意味なんてないのでは?とも感じられる。「」が誰から誰への言葉なのか、あるいは誰へも向けられていないのか曖昧だし、一人称二人称が2〜3こ出てくることもよくあるし、言葉どうしの繋がりも曖昧なことがあるし。その捉えどころのなさゆえ、思い切り想像連想を膨らませて遊べる(音楽の楽しみ方がどうしてもコトバに偏ってしまう者としてはとても救われる)。

光に翳してたくさんの色が見えるけれど、プリズムよりももっと歪でひび割れているかもしれなくて、何か見えたと思ったら歪んだ自分の顔だったりする。そのひび割れの中に細かい光の粒がキラキラと輝いていたりするし、その面を削った波や砂の記憶を垣間見ることもあるかもしれない。それを運んできた、美しいものも得体の知れないものも豊かに渦巻く海の断片なのかもしれない。
浜辺で拾ったガラス片の中に海を見るような音楽体験だと思う。

“撃たれたみたいだ!”
の高揚の数十秒後には、
“破れそうな紙に書いた
鉤括弧だらけの魔法じゃ届かない?
「私は幽霊か、脳震盪じゃない?」
でもね…
あ、途切れた”
と続く捉えられなさ、その愉しさ。

色々言葉を並べてみたけれど、「賛歌」のこの辺りにこそ、私がこのアルバムに感じたものが詰まっている気もする。

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