「沈む体は空へ溢れて」-『no public sounds』感想#4
「沈む体は空へ溢れて」の中の「好き」は報われないのだと思う。現実でこれからも「あなた」の側に居ることはできない。それで、「沈んでいく」しかない。「好き」を葬る代わりに。筋書きだけ見れば「破滅的な好き」という言葉にまとめられてしまうかもしれない。けれど、この曲はまとまりきらない。
“そうだ、ここなら踊れる、きっと
糸がなくても指を結んで
どうしてあなたを隠してしまう?
強張った肉を睨んだ”
このフレーズに、今この瞬間の「好き」を穴が開くほど見つめ、骨も砕かんばかりに握りしめる、みたいな、生命力すら感じるようなしがみつき方をイメージするからだ。
(最後の畳み掛けるような一節の歌唱は、「最後に振り絞られるエネルギー」もイメージできるけれど。
最後から2番目の
“言いかけたことも忘れながらいくよ
呆れて笑うあなたが好きだよ”
の震えは壊れそうなテープみたいだと思う。)
言わずもがなだが、この曲のもう一つの味わい深いところは、歌以上「破滅的」なサウンドだと思う。ゆったりしたリズム、足にまとわりつくようなベース、間奏の唸りのたうち回るギター、最後の一節で畳み掛けるようなドラムに、全身を押し沈められてゆくしかないような重々しさを感じる(あと、名前がわからないが、水面から差し込む光を水底から見上げるような響きの音が入っているのも良いなと思う)。
叶わない(そして相手の事情がどうであろうが)「好き」(ほしい、に近いのかもしれない)や、「離れたくない」みたいな原始的な感情に触れるには、現実の生活でもそうだが、私にとっては、歌の中でも少し勇気がいる。こういう感情と素直に会えるのは、想像で遊べる奥行きがあること(破滅的な展開なのに生命力が垣間見える気がすること)や、サウンドに圧倒されて理性が飛ばされる体験のおかげだと思う。
(ちなみに、2020年11月のPark Live(YouTubeに公式が上げている!)で初披露された時とは歌詞が変わっているのも面白い。アコースティック弾き語りと合奏形態という違いもあるのだろうけど、初披露時のこの曲は「好き」を過去のものとして受け入れつつあるような歌詞であるように思う。大きな違いとして、
“呆れて笑うあなたと居たのに”
になっている。好きという言葉は使われていない。今の「好き」に暴力的なまでに素直になったアルバム収録のこの曲も良いけれど、前の形も、この変化自体も素敵だと思う。)
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