旧統一教会の教理から読み解く、解散命令請求後の教会の在り方

※本ポストは旧統一教会信徒でなくとも分かりやすく書くつもりですが、基本的には信徒に向けて書いた記事となります。

旧統一教会の教理の「基本のキ」として「堕落論」というものがある。簡単に説明すると、この世のあらゆる罪は聖書のアダム・エバの堕落過程に起因し、その罪を脱ぐためには反対の経路を辿らなければならないという内容だ。
その堕落過程はざっくり
神と同じ立場に立てない
自己の位置を離れる
主管性を転倒する
犯罪行為を繁殖する
と定義されている。(詳細はリンク参照)
聖書解釈としては、アダム・エバの教育係であった天使長ルーシェルが人間への神からの無限の愛に嫉妬し①神と同じ立場で愛することができず②教師の立場を離れて③本来は主従関係(天使長は従)だったエバと不義の関係を結び④エバはアダムをそそのかして堕落させた、という内容となる。
旧統一教会ではこの堕落論をベースに、各種問題を分析・解決していると言っても過言ではない。(各責任者は教理を講義して伝道、信徒教育した現場叩き上げの経験が必ずある)
ようやく本論に入るが、この堕落論をベースに現状分析すると、構造が非常に分かりやすく、今後の方針が見えてくると感じているので、以下に論じていきたい。

・脱会屋(いわゆる拉致監禁により強制脱会させるキリスト教牧師たち)の場合
旧統一教会の教理は、キリスト教における救いの根幹を否定するものであり、許しがたい存在であるのは事実である。
①神の立場に立てない: ただ、キリスト教はどこまでも愛と許しの宗教である。キリスト教は異端に対して「異端論駁」するものの、それは牧師や聖書を通して神の愛を伝えて、異端者自ら教化される種類のものだ。それが愛の伝道者であるキリスト教徒だと私は理解している。
参考:中川牧師の記事
②自己の位置を離れる: しかし、脱会屋と言われる牧師達は強制的に信徒を拉致監禁し、「落ちる」まで何年でも拘束を続ける。
③主管性転倒: さらに、拉致監禁によって脱会せざるを得なくなった信徒に対し、踏み絵として旧統一教会への訴訟を強制し
④犯罪行為の繁殖: その上、別の拉致監禁被害者の脱会説得に加担させるなどしている。そのため、脱会した方々には罪の意識から精神的な病にかかる者も少なくないと言う。
これは現代版、遠藤周作「沈黙」の世界と言わざるを得ない。

・全国弁連(霊感弁連)の場合
弁護士を神と結びつけるのは距離があるようにも思えるが、神の権能である審判や弱者救済(慈愛)を代行していると、ここでは考えたい。
①全国弁連は法の奉仕者として弱者の声を聞き助けることを放棄し、宗教被害者の極一部でしかない旧統一教会信徒だけをターゲットに
②違法な脱会説得を弁護、さらに脱会屋に作り出された弱者(脱会者)の献金返還請求を行い、お人好しの旧統一教会からお金を稼ぎ
③弁護士の領分を超えて政府批判し、さらに野党ヒアリングなどで政治家を指導、文科省の解散命令請求を主導し
④次はエホバの証人など他の宗教団体に食指を伸ばし、果ては中国のような信教の自由が保証されない前例を作ろうとしている。

・日本政府の場合
政府は神の権能である統治や立法を代行していると考える。
①政府は国民の自由・平等をファクトベースで分析して政治的判断をする立場にありながら、元首相暗殺に端を発してマスコミ(もしかすると中国共産党)の圧力に屈し
②自民党の旧統一教会絶縁宣言により始まった旧統一教会信徒の二級市民化を放置、または助長している。
③また旧統一教会の教理では、宗教が「心=主」、政府が「体=従」である(国連も全宗教指導者が指導すべきという教え)が、政権延命を目的とした無理筋の解散命令請求を出し
④国内の宗教団体をランク付けして、政権に不要な宗教(票田になり得ないエホバの証人など)の切り捨てが徐々に始まっている。

・旧統一教会の場合
旧統一教会に関しても、若干批判的ではあるが、教会運営の健全化を願う部外者としての私見を論じたい

①旧統一教会は神の愛で人類を救済する目的を持つ宗教である。だが、全知全能の神を知ったが故に、自分自身も全知全能であると誤解した責任者が一定数おり、社会規範を殊更軽んじて活動させていたことは事実である。また、教祖である文鮮明夫妻を誤った形で神格化し、(現在の高額献金・宗教二世問題の原因となる)信徒の現状を教祖に報告する責任を放棄していた者も少なくない。誰しも教祖から褒められたいし、教祖から否定されたくないとは思うが、教祖に近い責任者こそ、その個人的感情を抑制しなければらなかった。さらにはその責任者達が教団内での権力闘争し、後継者を擁立しあい、今の惨状を作ってしまった。結局は各個人が神の立場に立たずに行動した結果が、今実りを迎えただけとも言える。旧統一教会はコンプライアンス宣言前の内容を、当時の責任者達が死を迎える前に総括すべきではないか。

②自己の位置を離れる、という論点に関しては、旧統一教会は誠実すぎるほど「自己の位置を離れずに」頑張っていると考えている。宗教は信徒を幸福にする役割がある。献金返還に関して個別相談窓口を作って粛々と対応しており、通常の宗教団体では考えられない行動である。信徒に幸福を提供するという役割を十二分に果たしているのではないか。過去の献金返還の原資は現役信徒の献金であるが、現役信徒からの目立った反駁はないように感じる。惜しむらくは、これがマスコミや政府に「違法行為の証明」として利用されてしまっていることだ。旧統一教会は、あまり戦略的な広報ができていない。

③先ほど、旧統一教会の教理では宗教と政府の関係は、宗教が「主」とは言ったものの、それはあくまで教団内でだけ通じる話であり、日本の社会構成員としての教団は「従」である。質問権行使の際、旧統一教会の意見を政府に伝える唯一の経路と前向きに捉え、言葉を尽くして説明できなかったのだろうか。質問権の回答情報は非公開のため推測でしかないが…また、岸田首相が1夜で宗教法人法解釈を変えたことを争点にしているが、立法・行政の主体が公式に変更したのであれば、教団がそこを争点にするのは得策ではない。それこそ法の主体に対する主管性転倒になってしまう。どこまでも「旧統一教会は健全な目的を持ち社会を良くする宗教団体である」ことを全面に押し出すべきだったのではないだろうか。

④旧統一教会は自身への宗教迫害に対して保身、対抗するのではなく、宗教界を代表する立場、信教の自由を守る立場で情報発信すべきだ。『私たちは信教の自由におけるカナリヤだ。私達が死ねば連鎖的に同様の問題を抱える宗教団体も攻撃される』と毎回の記者会見で主張するべきではなかったのか。旧統一教会は超宗教運動を積極的に展開していた。他の宗教団体との繋がりはあるはずだ。それともこんな時に連帯を示すことができないほど、薄っぺらな関係だったのだろうか。この問題は旧統一教会だけのものとして矮小化すべきではない。

※文中では信徒以外にも分かりやすくするため、いわゆる「主体と対象」を「主と従」と言い換えており、ニュアンスが異なってしまっていることをご容赦ください。

以上が私が考えた内容となります。
ただ、誤解して欲しくないのは、私は旧統一教会信徒として存続を願っているし、むしろ教えを広めるチャンスでもあると思っています。
また、旧統一教会の本部で本問題に対して日々対応している職員、動揺する信徒の心のケアをする牧会者の皆様は、前例のない事態を当事者として解決にあたる、敬意を表するしかない方々です。
このポストは現役信徒や本部職員を励ます気持ちで書いたので、そのように受け止めていただければ幸いです。

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