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前後の私に意味はあるのか

前書きというか前置きをなしに話を始めるのが私の定番になりつあるきがする今日この頃です。
何を思おうとも何を思わずとも勝手に浮いてくる言葉達は前置きを投げ捨ててしまうのです…
なんてね、ただ単に苦手なだけですよ。
なんというか上手く書けなくてね。
ともすればここの不器用さが普段の会話にも出ているというか…
コミュニケーションが苦手な訳では無いのですがあまり話が弾まないことが多く…
というか私が話すと弾まない。
何故かって?私の話が面白くないから。
などと自虐だけで終わらないのは私の良いところであると自負しているのですが、しかしながらちょっとやそっとで変わるものでは無い。
だからこそ変える価値やワクワクがある。
少し緊張もしますがしかし同時に楽しくもある。
ゾーンですね。
スポーツ選手などがよく突入する精神状態で、ワクワクと緊張が程よく合わさることでとてつもない集中力が生み出されるのです。
私の場合はそれが文章を書いている時とアクロバットをしている時。
というか話は大きく変わるしとても今更なのですが。
私が自分のことを書くってすごく珍しくないです?
凄いですね、こんなに希少価値のない珍しさがあるんですね。
驚き桃の木山椒の木。
残念無念柿八年…
ってな前置きは置いといて…
そう、実はあれ全部前置きというか前書きなんですよ。
凄いでしょう?
前置きの中で前置きがないとほざくんですよ?
そして恐らくここもまだ前書き…
ふむ…こうなってくると私は最初に嘘をついたのか、それともホントのことを言ったのか分からなくなりますね…
だって、ひとつの文章が丸々前置きで前書きなんですよ?
それってもはや前書きと呼べるのでしょうか?
しかしながらそれは前書きである、と言われれば私は嘘つきになりますね。
でも…その意見を許してくれるかどうか…
こんなもの前書きじゃない、と言われれば私は事実をお伝えした、言わば正直者です。
え?違う?ひねくれた偏屈野郎だって?
それもまた事実かどうかは我のみぞ知る…ってのはダメしょうか?
ダメでしょうね。
分かってましたよ。
ふむ、となると私はシュレディンガーの嘘つきでありシュレディンガーの正直者でもある、と言えるのですかね?
いや…シュレディンガーの陽野、ですかね。
蓋を開けない限り嘘つきなのか正直者のなのか分からない。
しかし1番わからないのは蓋を開けるべきかいなか。
開けぬほうが幸せなのか、開けた方が幸せなのか。
不幸になってでも開けぬべきか、不幸になってでも開けるべきか…
ま、こんなこと考えててもキリがないすね。
いやあるけど。
答えを出す意味も必要もありません。
何故かって?結果は同じだからですよ。
どっちにしろ未来に繋げてしまえばにも変わらない。
どの手段を選ぶか、と言うだけでどこにたどり着くか、が変わる訳では無い。
ただそれだけの事ですよ。
さて、いい感じにはぐらかせたところで終わりますかね
以上、否、異常、前置きでした
この続きはまた人生の中で…

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