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手を合わせる

「手を合わせる」機会というのが、結構あるなぁと、ふと思った。

ごはんをいただく際には、「いただきます」「ごちそうさま」と手を合わせ、お仏壇の前やお参りに行った際にも、手を合わせる。

わたしは、毎朝出かける前に手を合わせている。神棚というほど、立派で体裁を正したものではないが、玄関にはお神札を飾っていて、それを前に手を合わせる。
願いを込めて手を合わせているわけではない。
「感謝」や「誓い」など、自分の心としばしの対話の時間。

始めたきっかけすら忘れてしまったが、「手を合わせる」瞬間、自分の心の淀みが消えていくような、そんな心持ちでいられる気がして、いつしか習慣になっていた。

ただ、この「手を合わせる」ということに、一体どういった意味があるのだろうか。

調べてみると、とても納得できる記事があったので紹介させていただこうと思う。

日本人が何気なく多用する「合掌」本当の意味

私は、インド元来の仏さまや菩薩さまを拝む習慣に、神仏などの目には見えない力やはたらきへの畏敬の念が加わり、発展したものが日本独自の合掌だと思っています。

では、畏敬の念とは何かというと、それは「すべては当たり前」「生きている」という自己の驕(おご)りの反省です。本来の私たちの姿は、すべては当たり前ではなく、目には見えないはたらきかけにより、生かされているのです。

ここに「申し訳なさ」「感謝」「尊さ」の思いが湧き起こり、これらの思いが合掌となって体現されているのです。私たちの日常生活の中で手を合わせる場面を想像してみると、どの場合でもこれらの思いがあてはまるのではないでしょうか。

このような意味では、合掌自体は手を合わせる動作ですが、その深意を踏まえると「Embodiment of gratitude for invisible supporting working.」(目には見えないはたらきへの感謝の体現)と英訳できるのかもしれません。この感謝の体現が習慣化している日本は本当に優しい精神文化の持ち主だと思います。

なるほど、と思った。
合掌とは「目に見えないはたらきへの感謝」の体現であると一言で的確に表しているが、手を合わせることで目に見えないはたらきに心を寄せ、ありがたさを実感することができる。それは、豊かであり、尊いことだと感じられる。

そういった機会を与えてくれるのが「手を合わせる」瞬間なのだ。
そして、自分の心にその瞬間、立ち戻る。

何気なく手を合わせていたが、大切な心のあり方を先人から受け継いできているのだなと思わされた。これからも、手を合わせよう。

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