よきサマリア人
よきサマリア人というのは、善行をする人の模範のようによく語られ、
欧米などでは「医師が救おうとしたが、技術が足りず救命できなかった」などのときに、医師側の過失などに情状酌量を加える原則の例としても有名と思う。(記憶間違いでなければ)ちなみに日本の法律にはそれがなく、帝王切開で母体が死亡した時、手を尽くした産婦人科医が有罪になりかけたことで物議をかもした。極端な産婦人科医は、「飛行機で『お医者さんはいませんか~』と言われたらウイスキーダブルで頼め」というほどである。
きのう、その聖書箇所(ルカ11章)で牧師含め語らったが、牧師さんは、「このサマリア人のようにすることは難しいでしょ?愛するってことは、やろうと思えば際限がない。それが人間の限界で、神様が必要な理由」というようなことを言っていて感銘を受けた。
ユダヤ人はサマリア人から何かを買うとしたら卵ぐらいらしかった。
卵ならサマリア人が触れた卵の中身だけたべれるかららしい。それくらいいがみ合っていた。
そのサマリア人が強盗にあって半殺しにあっているユダヤ人を憐れに思い、応急手当てをし、ロバにのせ、宿屋まで運んで宿屋の主人に2デナリ(2万円くらいとのこと)を渡して介抱を頼む。
さらに治療費が足りなければ、帰りに払うと言ってサマリア人は用事に向かう。
こんな極端なたとえ話の裏には、「隣人を愛せ」はどうしたらできますか、と試した律法学者へのイエスの挑戦が見て取れるとのこと。
神様のレベルの愛は人間には無理だから、それを人間のレベルに落とし込んだものが律法とのこと。
ちなみにこの後、イエスは女性二人の家にとまり、マルタはもてなしで忙しくし、遊女の妹はイエスの話を聞いていた。
マルタはほかの聖書箇所にも登場し、バーベキューに行ったら何でもやっちゃうタイプの人とのことで、マルタはもてなしをしながらでもイエスの話を聞ける。しかし、遊女はそれができないから、イエス様の話を聞いていた。
できることをやるということと、神様に心を向けることも大事だよね、という「バランス難しいよね」ということを、聖書のその個所は結局言いたいんだろうという事。
いやはや、学びになりました。
きのう、散歩していたら、大きな水か何かをカートで運んでいる人がいて、横断歩道でカートが壊れた。その人はカートを置き去りに水を運んだが、信号が赤になりかけていて、カートどうしようとなっていた。
一部始終見ていたので、カート(そんなに重くない)を持って行ってあげた。「ありがとうございます~」と言われたが「いーえー」と言ってそのまま去った。いいことをしたとちょっとうれしい。
そういう思いやりを喜び、神仏に感謝するのがいいのかなと思った。
朝飯はバターコーンおにぎりと魚肉ソーセージ。
すがすがしい朝だ。
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