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5.想像をたくましくして思考力を高めるーつるのはしー

 JR西日本大阪環状線の鶴橋駅で下車し、東口(近鉄線)改札を出て、通称コリアンタウンを南北に貫く「鶴橋本通商店街」を南に向かうと、徒歩約15分で「つるのはし跡公園」に到着する。

 「つるのはし」は、日本最古の橋として名高い「猪甘津いかいつの橋」の古跡とされている。「つるのはし」の由来は碑文に詳しい。
 西暦324年に仁徳天皇が、大阪の百済川くだらがわ(後の平野川)を渡るために猪甘津(江戸時代の猪飼野村、現在の桃谷3丁目)に小橋おばせを架けた。
 周辺には百済からの技術者集団が多く住んでいたことから、大陸からの最先端技術により架橋されたのであろう。残念なことに、当時どのような橋が架けられていたのかは謎である。

 いにしえに、どのような橋が架けられていたのか、想像をたくましくしてみるのも創造的思考力を養う一助となる。そのためには多くの情報を集める必要がある。  

写真1 「つるのはし跡公園」に掲げられた碑文

 つるのはし跡公園内には、平安時代前期(9世紀)の女流歌人である小野小町の歌碑が立てられている。
 『しのぶれど 人はそれぞれと 御津の浦に 
              渡りそめにし 猪甘津いかいつの橋 』 
 人はそれぞれに色々な思いを抱いて、御津の浦の猪甘津の橋をわたるのでしょうかと歌っている。小町は誰かを見送ったのでしょうか?
 確かに、平安時代にも猪甘津の橋が存在し、歌人に読まれるほどに著名な橋であったことが分かる。

 江戸時代の記録によれば、橋の全長20間(36.4m)、幅7尺5寸(2.3m)の板橋と記されている。また、明治7年に平野川を深く掘り直した際には石橋に掛け替えられ、明治32年(1899年)には欄干らんかん付・長さ7間(12.7m)、幅1間(1.8m)の石橋に改修された。大正12年(1923年)に新平野川が開削され、不要となった旧川筋は昭和15年(1940年)に埋立てられ、「つるのはし」は廃橋となった。

 江戸時代後期から明治にかけて活動した浮世絵師の長谷川貞信による「猪飼野いかいのつるのはし」画には、右隅に「つるのはし」が描かれている。橋脚の上に板を乗せた桁橋けたはしである。
 江戸時代の記録にある「橋の全長20間」とは異なり小橋に見える。猪飼野の地は、田んぼが多く低湿地帯のようである。

写真2 長谷川貞信の作 難波百景から「猪飼野つるのはし」

 以上の情報だけでは、西暦324年に仁徳天皇が架けた小橋おばせがどのような橋であったかは分からないが、少なくとも木造橋であったことは間違いないであろう。
 いにしえの時代、低湿地に悩む難波なにわでは、橋は極めて重要な移動手段と考えられる。少なくとも、丸太橋から板橋へと進化し、川幅が広いところでは八ツ橋(継橋)が常用されていたと考えられる。

 ならば、大陸からの最先端技術で架けられた小橋は、どのような橋であったのか?「百済川は急流ではないことから、川中に橋脚を複数本立てて橋桁を渡した現在の桁橋けたはしの原型であったのでは」と想像を掻き立てられる。

 加えて、設計時にチャンバー(橋桁の中央部が上に凸)を付けていたのではないか? 自重による橋桁の中央部のたわみを想定し、あらかじめ上に反った橋を架けることは、古の時代においては最先端技術であろう。
 さらに、当時の百済川は瀬戸内海から仁徳天皇の高津宮に向けた船輸送の拠点であったと考えられる。ならば、中央部が高々と反り上がった桁橋ではなかったかと想像が膨らむ。膨らむ。


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