私のための私
クライアントワークが激増したり
書きたいメディアに連絡したり。
そんなことが普通になってきた、最近。
「誰のために書いてるの?」
クライアントワークってことはつまり、クライアントにプラスが起きることが第一条件だ。
もちろんクライアントを通した読者や「それを書いてみたい自分」にもプラスはあるのだけれど、クライアントワークにおける最優先事項は「クライアント」だ。当たり前のこと。
少し極端にいえば、クライアントのために書いている。
クライアントとは誰か?他人だ。
私は他人のために文章を書きたいわけじゃない。
ただひたすらに自分のために書きたいのだ。
いや、自分のために書いてきたのだ。
「自分のために」っていうのは、「自分の利益のために」って意味じゃない。
書かずにはいられない自分の受け皿というか、垂れ流してしまうものの受容というか。過去や将来の自分との対話というか。
自分以外の誰にも見られなくても書いてしまう。それが私にとっての私の文章だ。
クライアントワークは悪では無い。そういうビジネスだ。お金。
だけど私がやりたっかたのはそれじゃ無いってこと、常に念じておかなきゃ忘れてしまう。すごく大事なことなのに、忘れてしまう。忘れちゃだめなのに。
生きるためにクライアントワークをやってもいいけど、「これがやりたいわけじゃない」って気持ちを持ち続けなきゃだめだよ。
間違っても「ああ、楽しいかも〜」「先輩方の言うことを参考にして、王道ライタールートを駆けぬけよう」なんて思っちゃだめだよ。んなわけないんだから。
お金のために生きてもいい。大してやりたくないことをやってもいい。でも、やりたくなかったことをやりながら「結構いいかも〜」なんて楽な心持ちに流されたらダメだ。流されてしまうのは愚か者だ。
もちろん心から変化したならそれでいい。
だけど、私くらい頑固で意志の強い人間の根底がそう簡単に変わるはず無いんだよ。それは自分が一番わかってるはず。人間、表面は変わる。でも根底はそう簡単には変わらない。私の場合は小3くらいから変わらない。
クライアントワークにかまけて仕事を受注して、安住してたらいけない。「これはやりたいことでは無い」という気持ちを大事にする。
ライスワーク的なものがライフワークに侵入してきて、それを迎合するのは愚かだ。
自分がやりたいことは何か?って言ったら、毎日の(自分の)現象や感覚を言葉にすること。形式はなんでもいい。エッセイが好きだと思うけど、詩でも短歌でも短編小説でも、本当は絵でも漫画でもなんでもいい。毎日の(自分の)現象や感覚を言葉にする。
書かずにはいられない状態の自分をキープして、書き続けたい。誰かの心に届くとか届かないとかはどうだっていい。書きたいから書けばいい。ファンがいなくても敵がいても、書けばいい。
誰にも嘘つかない気持ちを書けばいい。
私にとって、気遣いは「嘘つき」。
だから気遣いはなるべくしない。
誰か傷つけても、自分が思ったように話すし行動する。
自分が強すぎる人間なのに、クライアントワークをしすぎて自分が薄まって、バランスを崩していたような気がする。
こんなに強い「自分」という存在を薄めてたらもったいないし効率が悪い。
お金を爆上げするという「偽の目標」に翻弄されていた。
私がやりたいのは、それじゃないのに。
書きたいことを書きたい。それだけ。
「これを書いてください!」なんて、やりたいわけないんだよ。
楽への第一歩、踏み出しすぎた。
「楽なことに甘えてないか?」
「ワクワクできているか?」
「自分のやりたいことなのか?」
「誰のために書いてるの?」
そんな問いかけをしつこく繰り返したいと思う。
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