気になる異性が自分のことを好きだと知った瞬間の気持ちよさが好きだ

いいなぁと思っていた相手が実は自分のことを好きだと知ったときの嬉しさを越える気持ちをいまだに知らない。生きてることを全面的に肯定されるような、生きることの不安が一瞬にしてはじけて消えるような、これから起こる全てのことがきっと楽しく思えるような、自分のことを犠牲にしても何でもできそうな、最強の気持ちになる。

あの気持ちをキープしていつでも取り出せたら最強の心で生きられるのに。一時の脳みそ興奮状態だから、保存できないのだけど。

この人、こういうせっくすするんだ、という発見と身体的な快感を同時に感じる瞬間も最強だ。この感覚は、一人につきせいぜい2~3回しか味わえないけれど、その新鮮な感覚は何年経っても忘れないほど根強い。

死にたいタイミングが同じ異性と自殺の計画を練るのも気分がいい。孤独の果てに見つけた友達、同志、生き別れたもうひとりの自分と出会った気分になる。死ぬのって最高だよねと思いながら、この共感がいつまでも続けばいいのに、という矛盾した気持ちになる。いつでも死ねるという安心感を得られる。死にたいとお互いに願いながらせっくすするのは、死と生が矛盾しながら同居してて、意味が分からないのに、最強の幸福感を与えてくれる。

「彼女より好き」というセリフの魔力はすごい。ただの好きが一番いいはずなのに、人間の脳みそは悲しいことに、比較されると分かりやすく何かを理解する。ただの一番好きよりも、彼女という強力すぎるものを越える「好き」をもらった方が、その「すごさ」を脳みそが理解してくれる。彼女より好き、というクソ中のクソみたいなセリフは強い。分かりやすく自分の存在価値を感じる。

こういう「脳みそへの極度の刺激」は、正常な感覚を麻痺させるし、幸せから遠ざかる。常にこれを得ることはできないし、得ることは健全ではない。

でもたまに、こういう脳みそへの極度の刺激が懐かしくなって、欲しくなるときがある。恋愛に限らず、何でもいいんだけど。そしてこういう脳みそへの極度の刺激を人工的に作り出せる人間は最強だ、と思う。最近だと、きんぐぬーに大して最強さを感じる。あれはなんなんだ。

お金や世の中の役に立つものを生み出す人もすごいけれど、こんな感じの極度の刺激を人工的に作り出して、人に与えて、気持ちや情動を動かせる人はすごい。負けたな、と思うし、負けて気分爽快だとも感じる。

アーティストとファンなんかは、そんな感じなんだろうか。ライブや新譜の発表は、わたしが享受していたせっくす的な効果がある気がする。性的な接触をともなわないせっくす。空気、脳みそだけのせっくす。そういうものを作り出す人はすごい。ちょっと憧れる。

じぶん、何がしたいんだろうね。落ち着きつつ仕事して、まっとうにお金増やしたいけど、たまに人の感情や情動に土足で侵入して傷つけて、立ち直れないくらいの記憶になりたいと思ってしまう。

自分に自信がないのか、ナルシストなのか、承認欲求なのか知らないけど。他人の情動に侵入して困らせたくなる。なんなんだろうね、この欲求。リビドー的なものなんだろうか。人との心の交流をしたいだけなんだろうか。

自分は何がしたいのか、何に向いてるのか、向いてることをするのを望んでるのか、さっぱり分からなくなるときがある。

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