今日は詩人になりたかった

今日は詩人になりたかった。それは私の中のお疲れのサイン。疲れると詩人になりたい気持ちが強くなる。病んでるときもそう。自分は特別だ、なにもしなくても素晴らしいものを生み出せるのだ、と思いたくなる。

この「詩人のターン」が来るのは久しぶり。数ヶ月ぶりだと思う。しばらくは「まともぶるターン」で、まともに何かを頑張ってる雰囲気で生きてた。話が通じる人、みたいな。若者としての典型、みたいな。そういうものを目指すことを当たり前のように感じていた。

昔はもっと詩人のターンが長かったし多かった。まともなターン10日、詩人のターン15日、くらいの間隔。

まともなターンは、躁チックなターンとも言い換えられる。アッパー系。そういうときは自分のことが好きとも嫌いとも思わないし、感情としては無である。

詩人志望のターンは、鬱チックなターンとも言い換えられる。ダウナー系。そういうときは自分のことをわりと気に入ってるし、感情としては楽しい。これこれ、という感じ。

躁チックと鬱チックで分類すると、今の長いスパンの方が、前よりもより躁鬱的ではあるね。

大人になったと言えば聞こえはいいけれど。成長したと言えば聞こえはいいけれど。

楽なのはまともなターン。生きてる感じは詩人のターン。

長く幸福に生きるためにはベースを楽にした方がいいと思っている。なので無理に詩人のターンを引き出そうとは思わない。

まともなターンで生きると、ベースが楽だからか、時間はあっという間に過ぎる。この感じで死ぬんじゃないか?と思うくらいあっという間に過ぎていく。

最近、自分はどうしたいんだっけ?とか、理想は?とか、あまり考えなくなった。前はそればかり考えていたけれど。

考えないと、本当にあっという間に過ぎていく。あれ、自分はどうしたいんだっけ。流れに身を任せる、とするのもいいけれど、考えるくらいしたいよね。

何がしたいのかといえば、ゆっくりしたい、本を読みたい、ご飯を食べたい、昼寝したい。いつでも好きに昼寝できる、というのはわたしの中の一つの幸福の条件かもしれない。サボるわけでもなく、ただ自由に昼寝ができる状態がいいね。

あとはのんびりできればいいのかもしれない。急ぎたくないね。お金で困りたくないね。大それた「これがしたい」は特にない。むしろ人間の「これがしたい」は、思い込みや気のせいなことが多いのだろう。だいたい気のせいだし、ただの手段なのだろう。

そんな感じで、やりたいことなんて「快適な日常生活」くらいのものだ。地味だしシンプルだし自分があえて生きる必要性も薄い。

欠乏感がないのもまた、別の苦しみがあるのかもしれない。気づけない苦しみ、いつのまにか沸騰してた苦しみ。

快適な生活をもっと快適にして、幸福感重視で生きたい

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