ちょっとしんみりする犬の話
いぬ、とり、複数の人間で暮らしています。
絵は自画像とかではなくたまたま大昔に描いたいぬのいる図。
ほわほわ癒し系の記事ではありません。いぬ(と、セキセイインコと複数の人間)と過ごす日々の記録と、必ずやってくる未来についての独白です。
秋冬の気配。あったかい、いぬの腹を撫でる。人間だと90歳くらいのおじいちゃんだ。元々そうだったが、春頃から日増しによく寝る。長い時間をかけて覚悟してきたけれど、今年の冬はもしかしたら越せないかもしれない、とのことだ。
覚悟していても「その時」というのはやっぱりつらい。現実という行き止まりの、目を逸らしようもない袋小路で、しばらくうずくまるしかない。
いぬは生まれつき目がみえない。正確には、光は捉えられているらしいが、左目は瘤になっていてほぼ視えていないそうだ。
パニックにならないよう、いぬが若い頃は気を遣った。
とりといぬはまあまあ長い時間一つ屋根の下で過ごす。大丈夫なのか…?と十年くらい前は思ったが、とり(初代)がいてもいぬは気にしない。それはまあそうかもしれない。が、とりはいぬに迂闊に近寄っていくので、それは人間が阻止せねばならない。
だいたいとりは放鳥時間以外はケージに居る。
いぬも、寝ていたいときは自分の居場所で寝ている。
かわいそうだから、というわけではなく、見せ物にしないため、が50%くらいの理由で(SNSで反応がほしいわけじゃない)、あとは自分のエゴで別れがきた時に悲しさがなるたけ拡大しないように、いぬの写真は載せない。話もたぶんあまりしていないと思う。
とりも、黄色い子としばらく前にお別れをしたし、いつ居なくなってもおかしくはない。
思い出を記録することはしたいし、大切なものは残したいが、胸が苦しくなるようなものを増やしたくない。ワガママ人間だ。
動物はできれば飼いたくない派だったのだけど、いぬも、とりも、同居人たちが連れてきた。みんな寂しかったり、癒しがほしかったりするのだ。それは理解する。わたしもちゃっかり癒されているし、写真や動画を撮るし、Twitterにときどき載せたりなんかする。
悲しみを抑える、というより、和らげる、ためには、考えた末、日々を後悔なく共に過ごす以外にないという結論に達した。
人間のワガママに付き合わせているのだから、かれらの健康や快適さを担保する。いっぱい慈しむことで、穏やかな気分で過ごしてほしい。
感謝するのはわたしのほうだ。
今日もいぬととりが可愛い。