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記憶と音楽に対する持論

音楽の自己紹介

音楽は割と広く聴く。広く浅くだと思われるのが悔しいのであまり言わないがクラシックもEDMもロックもヒップホップも懐メロもカントリーも演歌も好きだ、時代や土地に特にこだわりはない。好きになるポイントも色々な気がする。歌詞・メロディも勿論気になるし、その曲・アーティストのバックグラウンドで好きになる時もある。なんなら洋楽で歌詞の意味1つも分からずメロディーが好きで和訳を調べたら浮気をしているクズ男の曲だったなんてこともある。

記憶と音楽

自分にとって
音楽は呪いであり、記憶であり、思い出である。
忘れていたことすらも音楽のちからがあれば思い出せる。
逆に自分の中で猛烈に”夏”となってしまった曲はいくら好きでも冬に好んで聞かない。聞けない。
その時聴いていただけで記憶の引き出しになって、その曲と思い出や景色が同時に浮かぶ。覚えなきゃいけない単語や数式も曲と一緒に覚えられれば良いのになとかしょうもないことも考えてしまう。

卒業式でみんなと合唱した曲。親の車のチャイルドシートで聞いた曲。部活の大会で負けた後のバスで聞いていた曲。自分が多感になった気になって、歌詞が刺さっていたあの曲。家族旅行の帰り道で聞いた曲。受験期眠る前に聞いていた曲。

自分は、割と記憶力がある方だと自負している。曲を聴くとその時の情景を鮮明に思い出せることが多い。(映像記憶的なやつ)
何を感じていたかとかは思い出せなくなってきてしまっていることが多いけど。

思い出すきっかけになる音楽の力は凄いなと思うが、もっとすごいと思うのは記憶が曖昧でもなぜか記憶の海の奥の奥にある過去の自分が掘り起こされるような曲。

上手く言語化出来ない曲

昔聞いたわけでもないのに、昔を思い出す曲。
なんなら記憶にあるかも怪しい、いつかの自分を思い出す曲。
細胞レベルで記憶にない記憶が思い出されたりする。
何かを思い出していることだけは認知できているような、夢の中で暖かい光に包まれているような感覚。
絶対に人それぞれ違うけど、自分はそれがクイーンの曲の1つだったり、藤井風の曲の1つだったり、スピッツの曲の1つだったりする。

これは音楽理論では無い。傾向は無いはず。
これらの音楽は、言語やジャンル、作曲者の意図、コードがどうだとか、メロディーがどうだとかそこまで関係ないと思う。
聴いたときの聴き手の環境と感性に委ねられる部分が大きいためである。
でも、自分は歌詞がありすぎると歌詞の情景が浮かびすぎてしまいがちであるため、歌詞が抽象的な曲や多言語で想像つかない曲、歌詞がない曲にそんな曲が多い。

もちろんみんながたまたま共通して思い出しやすいってことは、あるんだと思う。例えば、久石譲の『summer』は、いつかの夏を思い出す曲として取り上げられているし自分もそう感じた大勢のうちの1人である。

音楽は受け取る人の数だけ

曲の在り方は、人それぞれ出会ってきた音楽、今までの経験・思い出によって異なるのだと思う。ある人はパンクバンドを聴いていつかのことを思い出しそうになり、ある人はクラシックを聴いて、ある人は”summer”を聴いて、、、、、みたいな。それが面白くて好きだ。
本当に関係ないが、中学生の頃、音楽の授業で”わが祖国”のモルダウを聴かされてどう感じるか話し合ったとき人によって全然違ってびっくりしたことを思い出した。

普通に想像を膨らませて聴く音楽との違いがうまく説明出来ていない気がする。

世の中に溢れている曲は全部楽譜に起こせて何かしらの音で出来ていて、音程があって、1つ1つ異なっているのに、受け取り方によって聞こえ方が変わるのは不思議だし面白い。だから自分の好きな曲をひたすら聴くのでは無く、好きな曲・アーティストを増やすため、運命的な出会いをするため、より広く音楽を聴いていたい。だから出来れば世の中にある全曲聴きたい。全人類思ってそう。

格好つけて『持論』なんてやってしまったが、自分は評論家でも音楽家でもないので気取らず惰性で聞いてりゃいいと思う。

それでも『多くの音楽に触れる』こだわりは捨てられない。

なにが言いたいかというと、人の記憶にまで踏み込める音楽家はまじで凄い。話してみたい。

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