地獄の沙汰も彼次第

春の終わりの日のことです。帰り道、駅から家までの夜道をだらだらと歩いていると、後ろから、同じように帰路につく途中であろう、男子小学生がやって来ました。車が一台通れるほどの道の両側をそれぞれが歩くかたちで横並びになり、ほどなくして彼は足早に私を追い抜いていきました。私は速度を変えずに歩いているので、当然ながら二人の距離はどんどん離れていきます。しかし一つだけ奇妙なことがありました。私を追い抜いてからというもの、彼は歩きながら、何度も、何度も、何度も、幾度となくこちらを振り向くのです。それもチラリと見るのではなく、体は進行方向のまま顔だけをしっかりとこちらに向け、要するにほとんど首を半回転させるかたちでこちらを見るのです。その首を切り返す動きといったら、いや実に切れが良く、パッとこちらを向いたと思ったら、次の瞬間にはパッと前を向き直します。あっという間に向き直すのですが、離れてゆくお互いの距離に比例することなく、確実にこちらを見ているその瞬間をはっきりと確認できるのです。そして必ず、目があうのです。たった二枚の絵コンテによるパラパラ漫画を見せられているようでした。五歩すすんでは振り向き、また五歩すすんでは振り向き、というふうに、一定のペースを保っていました。

とうとう彼は、自身の帰宅経路に基づく右折によって私の視野から姿を消すそのときまで、こちらを振り向き続けました。いったい何故そんなに振り向き続けたのか、私が疑問を抱いたことは言うまでもありません。もうツツジが散りはじめていることなどには全く興味がないというふうに立っている偏屈アパテイアのような街灯の、業務的な光に照らされる暗い住宅街の一画で、その瞬間にその空間を共有していたのは、私と彼のたった二人だけでした。ということは、彼は何かしらの理由があってこちらを見ていたに違いありません。どこか不可解な点でもあったのでしょうか。私はただ立夏の蚯蚓出る涼しい夜道を楽しんでいただけのつもりでしたが、彼には無視できない何らかの誤差、ズレ、違和感、そんなものがあったのでしょうか。

◇◇◇

そんなことを考えながら歩いているうちに、私はあっという間に彼が右折していった道のところまで来てしまいました。曲がらず通り過ぎるとき、ちらりと右へ視線を向けてみると、彼の後ろ姿がありました。そのとき私は、思わずこんなことを期待してしまったのです。きっと私がここに辿り着くタイミングで、彼はまた振り返るだろう。なにせあんなに振り返っていたのだから、私の歩く速度とお互いの距離から、まさにその瞬間を予測しているはずだ。その最後の一瞥を、別れの挨拶代わりにするに違いない。もしかしたら、これまではずっと真顔だったけれど、最後くらいちょっと微笑んでくれたりするかもしれない。声かけられたりしたらどうしよう。つい話し込んじゃったりして、仲良くなっちゃったりして、コミュ障&引きこもり歴=年齢のこの私に、こんなに歳の離れた小さな友人ができてしまったらどうすればいいのだ!

しかし、なんと彼は!一度も、たったの一度も振り返ることなく、ただひたむきに前進してゆき、ついにはどこかの細い道に入って、本当にいなくなってしまったのです!彼が振り向く最後の瞬間を目撃しようと思うあまり、無意識に立ち止まっていた私だけが、夜の闇の中に空しく佇んでいました。

私はショックを受けました。いやいや、ちょっと待ってくれ。あんなに、さっきはあんなに熱心に、何度も何度も振り返っていたのに、この最後の一瞥を、彼はあっさりと捨ててしまったのです!絶対におかしい。そんなはずはない。そんなことでは、さっきまで何度も何度もこちらを振り向いていたことに、説明がつきません。私には、彼が何度もこちらを振り向いていたことへの疑問に加えて、二度とないその機会を彼がまったく歯牙にも掛けなかったことへの衝撃だけが残されました。元来、赤の他人、何の関係もない二人だったというのに、置いていかれた、裏切られた、弄ばれた!と思いました。いや、思わされました。それは光の速さで変わりゆく世界の驚異的なスピードを目の当たりにしながら、私の時間だけが止まってしまったような、宇宙規模の寂寞でした。私が馬鹿だったのか?愚か者だったのか?なんだこれは、なんだこれは!

その瞬間、私は確信したのです。ほうき星が頭のてっぺんに墜落したのです。これが、これが、これが「思わせぶり」だ!これが「肩すかし」だ!これ「勘違い」だ!これが「一方的」だ!これが「仮死状態から目覚めたジュリエット」だ!これが「男と女」だ!思わず叫びたくなりました!エウレカ!ユリーカ!ホイレーカ!一切合切!一切合切!

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彼にはあれから一度も会っていません。今どこで何をしているのでしょうか。今日もまた帰り道の途中で、誰かに思わせぶりなことをしているのでしょうか。もしかすると最後にちゃんと振り返って、相手を安心させてあげる日もあるのかもしれません。ものの数分で相手を「仮死状態から目覚めたジュリエット」にしてしまうなんて、そしてラストシーンを決定づける鍵は完全に彼の手中にあるなんて!ああ小さいロミオ、なんて罪な男でしょう。私はもう一度彼に会いたいとは思いませんが、もしまた会うことがあれば、次は私がロミオになりましょう。転んでもタダで起きる私ではありません。今度は私が彼のすこし前を歩き、何度も彼のほうを振りむき、そして最後には私と同じ思いをさせてやるのです!ああ、でも、でも、私がそれを実行したとして、彼がそれにまったく興味を示さなかったらどうしましょう。一生懸命振り返っている私などには目もくれず、ラストシーンを迎えるより先にどこかの角を曲がって消えてしまったらどうしましょう。

そうなってしまえば、もうジュリエットなどはあまりに華々しい。もはやカンダタ。私が彼を出し抜いてやろうと私欲をあらわにしたばっかりに、細く美しい救いの糸はぷつりと音を立てて切れてしまうでしょう。そして私は再び、ひとりぼっちで、まっくらやみへまっさかさま……

あ、いま一瞬、それも悪くないかもしれないと思ってしまいました。いったいぜんたい、何者でしょうか、この感情は。恋ではないことは確かですが、なんというか、たとえば「運命の行く末を決めるためのリボン」が私の中に無数に存在するとして、そのうちの一本を彼にぎゅっと握られているような気分です。それも、すこし灰みがかったピンクに若干のラメが入った、細めの華奢なリボンです。それが運命であれば、私には受け入れる他にないのです。

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これから毎年、ツツジが散っていくたびに、私はきっと彼のことを思い出すのでしょう。これを読んでいる皆さんも、もし彼に出会うことがあれば、変に大人ぶったり、意地を張ったりせず、ぜひ存分に翻弄されることをおすすめします。新しい世界が見えるかもしれませんよ。そして、いつどこで彼に出会ったのか、どんなラストを迎えたのか、こっそり私に教えてください。