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昔の手紙に、自分の浅ましさを突きつけられた

仕事場として使用しているアパートを引っ越すことになった。引越し前日、バタバタと荷造りをしていると、1枚の見慣れない手紙が出てきた。

真っ白な封筒の中央には私の名前が、裏面には差出人らしき人の名前と、会社名が書いてあった。おそらく男性の、丁寧な字だ。しかしまったく記憶にない。誰だろう? なんの手紙だろう?

中の便箋を取り出して開いてみると、それは「不採用通知」だった。それも、すべて手書きの。

会社名を検索すると、とあるデザイン会社がヒットした。サイトを見ていると少しずつ記憶が蘇ってきた。デザインの専門学生時代、私が履歴書とポートフォリオを送った会社だ。求人を見つけ、自信のないまま応募して、予想通り落ちたのだった。しかし代表の方は、ポートフォリオの返却と一緒に、わざわざ手紙を書いて同封してくださったのだ。同じ専門学校出身だったらしく、後輩の役に立てずすみません、といったことが書いてあった。そんな手紙を受け取ってしまった当時の私は、不採用に落胆することも、その会社を恨むこともできず、なんだか微妙な気持ちだった。でも、なんとなくその手紙が捨てられなかった。不採用通知を長年とっておくなんて、ちょっと珍しい話かもしれない。

懐かしさと多少の気恥ずかしさに胸をじんわりさせながらサイト見ていると、代表者のプロフィール欄にTwitterアカウントへのリンクがあった。あの手紙を書いてくれた人だ。一体どんな人なのだろう。私はすこし迷ったが、どうしても気になって、そのアカウントを覗いてみた。

その人のアカウントは、本人のツイートは少なく、リツイートがほとんどだった。そしてフォロワーが数百人ほどだった。

それを見た私は、ほっとしてしまった。

そしてそんな自分に驚いた。……いま、私、この人を見下したのでは?

自分より発信をしていないから。自分よりフォロワーが少ないから。かつての自分を不採用にした相手が、SNS上で自分より影響力を持っていないらしい事実を目にして、私は一瞬、この人より精神的優位に立てると思ってしまったのではないか? そして、かつての不採用は、私の能力不足ではなくこの人の判断ミスだったと、都合よく正当化しようとさえ思ったのではないだろうか?

ショックを受けた。私はいつから、SNSの内容やフォロワー数で相手を判断するような人間に成り下がってしまったのだろうか。

いや、本当はずっと前からそうだったのかもしれない。そしてそれに気付いていたにも関わらず、見て見ぬ振りをし続けていたのかもしれない。

センスもない、技術もない、取るに足りないただのイチ学生のために、時間を割いて手紙を書いてくれた人のことを、私はなんの信憑性もない数字だけで判断しようとしてしまった。SNSと現実は必ずしも呼応しないということを知っているのにも関わらず、だ。

なぜそんなふうに考えてしまったのか。原因はなんとなくわかっている。私自身が、その他に誇れるものを持っていないからだと思う。SNSのフォロワー数が果たして誇れるものなのかどうかはさて置き、他でもない私自身がその数字に執着しているという、あまりにも情けない事実が、今ここに明らかになってしまった。最初にこの人のアカウントを「覗く」という言い方をしたのも、なんとなく見てはいけないような気がしていたからだ。きっと、もし私よりずっとフォロワーが多くて、みんなに愛されている感じだったらどうしよう、と無意識に身構えていたのだと思う。なんなんだ、その自己防衛は? 浅ましい自己愛ばかりが育っていく。さもしい。これを俗にさもしいと呼ぶのだ。あ、情けなさすぎて涙が出てきた。

私は慢心していたらしい。猪口才なプライドをつくりあげ、それで心を覆って大人になった気でいたらしい。今、その薄いガラスのようなプライドはバキバキに割られた。心はむき出しになり、哀れにも小さく震えている。体が一回り小さくなったような気がする。

もう3月が終わる。新しい季節がはじまる。厳しい冬を超えた桜は美しく咲き始めている。私も、色々と新しいことに挑戦しようと考えていた。それなのに。それなのに。不意打ちで顔面を思いっきり殴られたようなショックだ。

このタイミングで、この手紙に再会した意味を、よく考えてみようと思った。