仁の在り方は、一概に言えない。大きな目で見ることも必要である

(現代語訳)
子路が斉せいの桓公かんこうが公こう子し糾きゅうを殺したとき召しょう忽こつは義を守って死し管かん仲ちゅうは死せざるのみならず君の仇あだの桓公に事つかえたのをその意を得ずとして「管仲は仁とは申せますまい。」とおたずねしたところ、孔子様がおっしゃるよう、「当時周の王室が衰おとろえて諸侯服せず、夷い狄てき侵しん入にゅうして中国危からんとした際、桓公が武力を用いず血を流さずして諸侯を連合させ、尊王そんのう攘じょう夷いを実行して天下の人民を安あん堵ど休息させたのは、全く管仲補佐の功績である。たとい公子糾のために死ななかった小過失はあろうとも、天下を平らかにし万民を安んじた偉大な仁に誰だれが及ぼうや、誰がその仁に及ぼうや。」

(所感)
義理には自分だけしか知らないものがある。
行動だけを見て、とやかく批判するのは思慮不足である。
会って、話して、その人の思うところを感じ取ったうえで、意見をするのが礼儀であり、人として正しい行いである。

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