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水俣と地蔵と私

滞在中、時間のあるときはひたすら地蔵を掘っていた。横浜に戻る数日前に完成したその地蔵は、埋め立てられた水俣湾の跡地に造られた公園に安置される予定だった。しかし、コロナが流行し、安置式を行うことができなくなった。

それから数年が経った昨日、6年ぶりに安置式が行われたそうだ。水俣に住む人にとって大切な1日。
私が彫った地蔵もようやく海と夕焼けを眺められただろう。頭の片隅で気になっていたことが無事に終わり、一区切りがついてほっとした。

光栄なことに、安置式を主催した本願の会の会報誌に文章を寄稿させてもらった。
私の第二の故郷になり、ものづくりの根幹に触れることができた水俣。 

水俣で過ごした日々を久しぶりに思い返しながら、文章を書きました。

***

「だんだんとお地蔵さんがりょうくんに似てきたねぇ。」

私が彫った地蔵を見て、地元の人がかけてくれた言葉です。それまでは、地蔵が私に似ているなんて思いもしませんでしたが、いわれてみると、確かに似ているように見えました。少し恥ずかしかったのですが、とても嬉しかったことを覚えています。

私が水俣に滞在していたのは2018年の秋。80日という短い期間でしたが、たくさんのプロフェッショナルと出会いました。

紙漉きのプロ、機織りのプロ、農業のプロ、狩猟のプロ、暮らしのプロ。仕事に対する彼らの「この程度でいいやと妥協せずに、ずっと追求していく姿勢」に、私は大いに刺激を受けました。

そうやって生み出されたものからは、その人らしさを感じ取ることができるのです。次第に、私自身も何かを作りたいという気持ちが強くなっていきました。

そんな時に石彫りができると聞いたので、すぐにやりますと答えました。私が水俣に残せるものになるし、80日間の集大成にしたいと思ったのです。

その地蔵を「あなたに似てきた」と言ってもらえた。真剣に向き合った姿勢が滲み出たのかなと思い、嬉しかったのです。

滞在中、和紙の職人さんが私に「どうして伝統工芸と呼ばれ、日本でその技術が継承されてきたと思う?」と問うことがありました。

続けて彼は、「武士における刀とは何だと思う?」と言いました。

私は言葉に詰まり、そして回答を求めました。

「武士が刀で人を切る数は少ない。それでも肌身離さず持ち続け、眠る時は刀を側に置いて眠った。そこまでして武士が刀を大切にした理由。それは、刀を単なる道具ではなく、お守りとして持っていたからなんだよ。日本において工芸品が今日まで残ったのは、そういった日本人の心があってこそなんだ。」

お地蔵さんもまさにそういうものではないでしょうか。想いを込めて彫られた地蔵は、作り手の想像を超えて、誰かの特別な存在になるかもしれない。

私が彫った地蔵は、耳の形が左右で違ったり、ところどころ欠けている部分があったりするので、お世辞にも良くできたとは言えません。けれど、微笑んでいるように見える優しくてかわいい顔をしています。

地蔵は私の分身みたいなもの。

これからずっと、美しい海と夕日を眺められる場所で、水俣に住む人たちの心を穏やかにしたり、愛着を持ってもらえることを願っています。

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