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2020 優駿エッセイ賞

ご無沙汰しています。テンポイント松下です。

先日、最終選考まで残っていた優駿エッセイ賞の結果が発表されました。

結果は選外。残念ながら二匹目のドジョウはいませんでした。

とはいえ、初めての書き物に続いて、2作目もプロの作家様に読んでもらった上、審査の舞台まで上げていただいたことは正直出来過ぎだなとは思います。さらに今回の審査員の方の選評を読ませていただくと4人中2人は限られた字数のなかにも関わらず、ありがたいことに名前やタイトルを出して高評価していただいていました。

特に馬事文化賞作家の島田先生からは

とのお言葉をいただきました。審査員ではなかったGallopのエッセイの作品にも目を通していただいていた上での嬉しいコメント。ありがたや。

ライターの仕事もできるもんなら是が非でもやらせていただきたい。どうしたら仕事もらえるのかしら?教えてどこかの偉い人。

今回の大賞作品と次席の作品は奇しくもオーストラリアの競馬が舞台と総評にあり、僕が書こうとしたテーマの候補にオーストラリアの競馬学校時代の話もあったので、そこを避けてよかったような、ぶつけてみたかったようなというな複雑な気持ちでした。ただ、大賞の作品【夢色の瞳】に目を通したところ、ぶつけなくてよかったってのが正直な感想です 笑 12月中旬にネットで読めるようになるらしいので是非とも目を通していただきたい。本当に原稿用紙10枚かと思うほどのしっかりした展開とメリハリのある組み立て、人へのスポットの当て方や話のひっくり返し方、締めまで完成されてて隙がない。競馬を知らなくてもすらすら読めて、競馬通には懐かしさと「そうなんだ」と思える情報も与えてくれる理想的なエッセイでした。
このレベルで文章を書けたら楽しいだろうなという一つの指針になったので、来年にむけて長いスパンで準備していきます。
幸いにも書いてみたい話の種となる悲喜交交はたくさんあるので「3年以内に賞を獲る」を目標に本業の邪魔にならない程度に頑張ります。

ちなみに「最終選考に残りました」と私がツイートした際に、「私も残りました」とリプをくれた方がいました。「お互いいい結果だといいですね!」と返したあのときの私に言ってやりたい。



「その人、大賞だよ!」



鈴木さん、改めておめでとうございます。



さて、私の作品は選外ということで作品がオフィシャルで公表されることもないので、せっかくなのでもったいないの精神でこちらで晒したいと思います。

箸にも棒にもかからなかった…と言うとあまりに自虐が過ぎるので、″箸か棒にはかかった程度の作品″としますのであまり構えず、期待をせず、後悔もせずの心構えで目を通していただけると幸いです。また、来年以降、優駿エッセイに応募しようと考える方に

最終選考以上佳作以下

のラインの作品として役立ててもらえればこれまた光栄です 笑

ちなみにこちらは今回のエッセイに出てくるセイウンスカイというお馬さん。

【色】が一つの軸になっているのでセイウンスカイのこのヴィジュアルは頭の片隅に置いて読んでいただけると幾分読みやすいかなと思います。

それでは。

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襷で繋ぐ菊花賞

 中学生になった私は陸上部に入部した。小学2年生から始めたサッカーの才能はどうやら自分にはないらしいとJリーガーになる夢に早々と見切りをつけ、それならば、と厳しい練習で唯一身につけたスタミナを活かせる部活は何かと模索した末の決断だった。今となって思えばそれは私の人生を左右するものであった。その決断によって私はそれから6年後、競馬の騎手を夢見て、単身で海を渡ることになるのだから。

 陸上部に籍を置くことになった私は3000mを専門種目とした。単純にトラック競技で最も距離の長い競技を選んだだけではあったが、400mのトラック7周半をいかに速く走り抜くかという、スタミナと共に戦術を必要とするそれに私は次第に夢中になった。来る日も来る日も県大会決勝の基準タイムである9分台というタイムを目標に走り続けた。そんな陸上漬けの変わり映えのしない日々の中、中学2年生の私は不意に競馬と出会う。

 ある日曜日の昼下がり、リビングで点けっぱなしのテレビが騒がしい。目をやると競馬中継が放送されていた。耳にしたことのない専門用語に混ざって聞こえた『3000m』という馴染み深い言葉にチャンネルを変えようとしたリモコンの手が止まる。ふむ。どうやら菊花賞という3000mのレースらしい。馬にも3000m走があるのか。そんなことに思いを馳せているうちにレースはスタートした。セイウンスカイと呼ばれる馬が勢いよく先頭を駆ける。『最初からそんなに前にいて勝てるわけがない』と自分が走る3000mを重ねそんなことを思った。だが、レースが進むにつれ、地面を強く蹴る音、熱を帯びる実況に群衆の歓声、そして躍動する馬の姿に、いつの間にか冷めた思いは映像の向こうに呑まれて消えていった。そして私が勝てるわけないと決めつけた馬は、太陽の光に照らされ銀色に輝く体で青い空と緑の芝生の真ん中を鮮やかに切り裂き先頭のままゴールした。3分3秒2。そのタイムと迫力と美しさは私の心を奪うにはテレビ越しでも十分であった。

 中学生男子なんてものは恐らく世界で一番単純な生き物である。その日以来、私の憧れは名だたる陸上選手ではなく『セイウンスカイ』、そして毎試合が私にとっての『菊花賞』となり、試合でのスタイルも逃げ一辺倒へと変化した。最後まで先頭で走り切れることは稀であったが、その戦法は結果的に自分に合っていたのか、9分台という目標を達成して中学校での陸上生活を終えることができた。

 高校生になった私は今度は迷うことなく陸上部に入部した。しかし、そこで大きな問題と直面する。高校生男子のトラック種目には3000mがなかったのだ。いや、あるにはあるが3000m『障害』しかないのである。中学校の終わり際から膝に不安を抱えていた私は体への負担が大きい3000m障害を諦め1500mへと戦いの場を移した。
 これが失敗だった。距離を大幅に短縮するには私には圧倒的にスピードが足りなかった。それを補おうと急に練習を増やしたことで、夏を待たずに私の膝は悲鳴をあげた。
 右膝靭帯の重度の負傷。全治は1年以上との診断が下され、先の見えない治療とリハビリの日々が始まった。そんな暮らしで競馬は私の心の拠り所であり続けた。怪我をした馬に自分を重ね、そんな彼らがターフに戻ってくると喜び、元気に走る姿に力をもらった。いつか自分も。そんな思いを支えに1日も早い回復を目指し歯を食いしばった。
 しかし、私が復帰できたのは怪我をしてから約2年後の3年生の春、最後のインターハイまで3ヶ月を切ったころであった。当然ながら2年のブランクを埋めるには3ヶ月は短すぎる。力が足りないことを知りつつ出場したインターハイ、私自身最後となる1500m走のタイムは同年代の女子のタイムにすら遠く及ばなかった。こうして私はまともに走ることすらなく引退を迎えた。最後の試合を終え泣いている部員の中、私は1人泣くこともできず、ただただ後悔の中に立ち尽くした。

 部活動の引退に伴い、周囲が受験勉強へと埋没していくなか、私は騎手になるため渡豪することを決めた。怪我に苦しむ時間が競馬への憧れを抑えきれないくらいに大きくしていたことに加え、もうこれ以上後悔はしたくない、そんな想いも背中を押した。
 日本を離れるのは翌春になるということで半年の猶予を得た私は、体作りのため身を引いたはずの陸上部の練習に参加させてもらうこととなる。たった1人の3年生ということもあり気恥ずかしさはあったが、これまでできなかった分を取り返すかのように現役選手以上に練習をこなした。すると、夏を終える頃には部内でもトップクラスのタイムを記録するまでになっていた。3年生だから当然といえば当然なのだが、足を引きずらずに軽快に走る私の姿を見て後輩達は目を丸くした。

 『駅伝に出てくれませんか?』9月の初めに2年生の新キャプテンは唐突に私に言った。
 毎年、秋から冬にかけて行われる高校駅伝は長距離選手にとってはインターハイ後の大目標である。通常の学校では3年生は駅伝を走って引退となるのだが、我が校では受験に力を入れるため3年生は出場しないのが通例であった。『今のメンバーに加えて松下さんがいてくれれば表彰台が狙えるんです』彼は続けて言う。県内には全国レベルの強豪校が2校存在し、現実的にはそれ以外の高校は3位を目指して戦っている。毎年3年生を欠いて戦う私の高校はその戦いにすら参加できずにいた。有望な1年生が数名入部した今年はチャンスなんだと彼は熱く語った。

 3ヶ月後の大会当日、私は駅伝のメンバーとしてその日を迎えた。任された区間は全7区間中5区。その距離は奇しくも3000mだった。
 快晴の空の下、号砲は鳴り響く。全長2キロの競技場の外周を周回するコースのため、出番ギリギリまで誰も仲間に声援を送る。試合では4位で襷を受けた我が校の4区走者が1人を交わし、3位まで順位を上げていた。このままいけば本当に3位を狙えるぞ。走り終えた仲間達が興奮気味に声を上げるなか、私は静かに息を整え、スタートラインに立ち出番を待つ。前を走る2位の学校の選手が襷を受けてから約30秒、我が校の4区走者が予想よりずっと早く私の視界へと飛び込んできた。このタイム差なら総合2位も狙える。頭によぎったその思いを一旦胸にしまい、両手をあげ、大きな仕事を成し遂げた仲間の名を呼ぶ。そして彼からもう誰の汗かもわからないくらいに濡れたずっしり重い襷を受け取り、地面を強く蹴って私は走り出した。
さぁ3年ぶりの菊花賞。そして最後の菊花賞だ。

 勝負できる喜びで自然とペースが速くなるのがわかる。チームで事前に設定したタイムは最初の1000mを3分20秒。おそらくそれよりかなり早い通過タイムになりそうだ。しかし不思議なくらい体は軽い。どんどん脚の回転は速くなる。

 最初の1000m地点でストップウォッチを構えるマネージャーを視界に捉え、あっという間にその横を駆け抜ける。一瞬あって斜め後ろから「3分3秒!オーバーペースです!」と心配そうな声が聞こえた。しかし私は「セイウンスカイのタイムだ」と場違いにも思う。もちろん1000mのタイムだから全くの別物なのは百も承知だ。それでもなぜか嬉しくて、全速力で駆けながら少し笑ってしまった。体がさらに軽くなった気がする。どこにも痛みはない。ペースを落とすな!いけ!自分自身に命令する。

 角を曲がり50m先に2000m地点で立つもう1人のマネージャーの姿が見えた。が、一瞬で彼女は私の視界から外れる。その少し前を走る2位の学校の選手を視界に捉えたからだ。全身が粟立つ。届く。そう思った瞬間には加速していた。それに合わせるように沿道から聞き慣れた声がした。受験直前の身で応援に来てくれた同級生。競馬場の数万の大歓声にははるかに及ばない声援だがそれは何よりも強く私の背中を押す。2000mを通過すると同時に『2000m、6分6秒です!』という声。ということはこの1000mも3分3秒。またしても。しかし笑ってる余裕なんてもうない。前の選手を追い抜いて必ず2位で襷を繋ぐ。私はそう決めた。
 陸上選手としての終わりが近づくにつれ、前を走る選手の背中がどんどん大きくなる。それらと並行するようにさっきまで軽かった体が何かを思い出したかのように重くなる。当然だ。苦しいのなんか知っている。それを超えていくのが走る者の宿命なんだ。
 気がつけば前を走る選手が手を伸ばせば届きそうな距離にまで迫っていた。
 残り400m。ちょうどトラック1周分の距離。そこはいつもスパートのタイミング。右手で太ももを鞭のように叩き、それを合図に最後の力で加速する。

 残り300m。追いつけ。捕まえろ。
 あの馬のように。
 残り200m。並ぶ間も無く交わせ。
 あの馬のように。
 残り100m。突き放せ。
 1センチでも1ミリでも遠くに突き放せ。
 大好きなあの馬のように。

 私の名前を大声で叫び、笑顔で手をあげる仲間に向かい私は駆ける。

 襷は繋がった。

 冬の冷たいアスファルトに倒れ込んだ私の目に映るいつかと同じ青雲の空は、駆け寄った仲間達ですぐに見えなくなった。



 それから3ヶ月、夢を叶えるため私は日本を発った。大きな荷物の中では銀色のメダルが輝いている。あの日の、あの馬のように。

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以下、敗者の弁、且つ来年以降に向けて自己分析と少しばかりの裏話。

まぁ結果に結びつかなかった最大の要因は「自分語り」の範疇を出なかったということかなと。結局「自分ってすごくない!?」的な内容ですから。そりゃ読んでても「はいはい。すごかったねー」とはなりますよね。自伝でやれやって話ですもの。自分が審査員ならそんなもん絶対蹴りますから。絶対。その点、ギャロップで大賞いただいた作品は自分語りとはいえ、ええ感じで締めただけで結局は最後まで救われてないトータルで不幸な話ですから、我ながらまだ可愛げがあるなと 笑
そもそも自分が主役の話っていろんなジャンルのエッセイ賞の過去の傾向から見てもあまり評価されないんですよ。というか読む方も書く方もスタンスが難しいんでしょう。お笑いでもピンのときのネタで自分の作ったボケに自分でつっこみいれてるネタが笑いにくいと作家さんに言われたんですが、それに近い気がします。自分で自分の物語書いたらそりゃええ感じになるわな。的な。だから、基本的には自分目線で主役は他の人だったりとかの方がエッセイとしては余計な感情が介入しないのでいいんだろうなと感じました。
さらに今回の作品を読み返すと全体のバランス的にも競馬部分が薄いのもよくない。本筋と競馬のバランスは最低でも5:5くらいにしとかないと。自分のは8:2くらい。これじゃあ競馬主題のエッセイとしての体をなしてない。正式にタイトルつけるなら【松下慎平物語 部活編〜競馬を添えて〜】とかになるもん。なんだよそれ。絶対おもんないやん。
もっとぶっちゃけると、作品送る前にありきたりな話だなという懸念はありありでした。「青春といえば」みたいなところの部活と競馬を絡めた話なんて飽きるほど送られてるんだろうなーっていう認識はちゃんとありました。ただ、そこに芸人のスタンスで笑いどころを足して自分の色を出していければおもしろくなりそうだなと思ったんでそのテーマで書くことに決めました。まぁ時間もなかったってのもありますが。で、勢いで書きあげた作品が原稿用紙15枚。応募規定は10枚。約2000文字オーバー。そりゃもう途方にくれました。それが確か締め切りの前日とか。そっから削る作業が地獄。おもしろの部分なんかすぐに全部なくなりましたから。芸人が笑いどころ削っていくんですから、まさに身を切る思いでした。それでも12枚までしか減らせなくて、そっからさらに本筋を削る作業。もう気分はジェンガ。変なとこ削ったら全部崩れておしまい。みたいな状態で慎重に話が破綻しないように削って削ってなんとか原稿用紙10枚に。10枚目の最後の1マスまで詰め込みきったのは僕くらいでしょう。多分。まぁその時点で気づくべきでしたよ。10枚で書ききれるお話じゃないって。その結果が先述した松下慎平物語なんだから目も当てられない。本当は同級生の話とかもあったんです。「松下が走るなら俺も戻る」って言って受験前の3年生が2人戻ってきてくれた(結局2人とも受験も合格した。すごい)とか、その3年生同士で襷を繋いだりとか、わりと感動するやつが 笑 でも、全削り。結果的に自分1人だけでチーム押し上げたみたいな感じに仕上がってしまった。ごめんね、健と一哲。
それでいうともうひとつ。
さも2位で銀メダル!みたいな書き方になっちゃいましたが、実は最後抜き返されて3位でした。ただ、これは嘘を書いたわけではありません。全体順位は3位でしたが、区間で僕自身が2位だったんです。だから厳密に言うと、鞄の中には区間2位の銀メダルと全体3位の銅メダルが輝いてました 笑 この辺は個人的に上手いこと処理したなとしたり顔でしたね。嘘は書いてないんだもの。まぁそんなところです。

長々とまとまりのない話を書き連ねてしまいましたが、結局のところ「来年楽しみにしててください!」ってことです。

それでは、この強引に前向きっぽいだけの締め方をもって私のエッセイ2作目「襷を繋ぐ菊花賞」の供養とさせていただきます。

長々とありがとうございました。

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