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小和田哲男先生:真実の徳川家康とは?その凄さに迫る

今年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。
 
徳川家康といえば、日本史の超有名人。「きっと、こんな人物」と、なんとなくイメージをお持ちの方も多いでしょう。しかし、本当にそれが正しいでしょうか。徳川家康の凄さは、どこにあるのでしょうか。
 
さらにいえば、並みいる大名のなかで、戦国の世を完全に終わらせて日本全国をまとめあげる位置に立てたのは、なぜなのか。さらに260年にも及ぶ平和な時代の基盤を築けたのは、なぜか。
 
テンミニッツTVには、徳川家康にまつわる講義が多数あります。
今回は「どうする家康」で時代考証をされている小和田哲男先生の講義をご紹介いたします!
徳川家康への注目が高まるいまこそ、ぜひ、その「知られざる実像」について学んでみてはいかがでしょうか?
 

講義紹介

小和田哲男:今川「人質」時代、徳川家康の実像を物語る3つのエピソード

講義のみどころ

今回の講座では、家康の若いころのエピソードも、ふんだんにお話しいただいています。おのずと、家康に対するイメージも一新されるはずです。
 
まず最初に小和田先生は、小説家の山岡荘八さんの『徳川家康』が人気だった頃と現在とを比べて、「家康像」の違いをお話しくださいます。

《山岡さん原作の頃はまだ、「徳川中心史観」という言い方をしますが、「家康に間違いはない」というような見方で、小説も描かれていました。しかし、その後少しずつ、やはり家康にも失敗はあったし、間違いも犯したというように、少しずつイメージが変わってきています。
 
昔はどちらかというと、家康のリーダーシップが前面に出て、それでみんながついてきたという感じでした。しかし、最近はむしろ家康は家臣団によって動かされてきた、ないし家臣によって支えられていたというイメージが、かなり定着しています》

「初めから偉かった人」というのではなく、「いかに人間的に成長していったか」ということでしょう。
 
さらに興味深いのは、徳川家康の「人質時代」の話です。
 
徳川家康が幼少のとき、最初は織田家の、そして次には今川家の人質となった話は有名です。時代劇ドラマでも、人質時代は抑圧された生活を送っていたかのように描かれがちです。
 
しかし小和田先生は「実は、そうでない」というのです。

《私に言わせると、家康の子ども時代はむしろ奔放であり、結構腕白ともいえる、自由気ままなものでした。それは、いわゆる人質というイメージが実際と違っていたということです》

小和田先生は、その理由や人質時代の興味深いエピソードを語ってくださいますが、それについてはぜひ講座第1話をご参照ください。

第2話以降の内容紹介

さらに徳川家康の「人間的成長」を考えるときに重要なのは、今川家の軍師的存在でもあった僧侶・太原雪斎の教えを、直接受けていることです。
 
実は太原雪斎は、当時の今川家の当主・今川義元を育てた人物でもありました。今川義元は、家康に相当な期待をかけて、自分と同じ教育を受けさせたのです。
 
戦国時代に第一級の僧侶が務めた役割は、独特のものがありました。外交も担当しますし、書物が読めるので兵法書を読んで軍師的な役割も果たす。さらに宗派のネットワークも活かしてインテリジェンス的な部分も担当したのです。
 
そのような太原雪斎の薫陶(くんとう)を受けた家康は、大きな影響を受けることになるのです。
 
第3話では、桶狭間の戦いの後、戦国大名として自立した後の家康の苦労について教えていただきます。
 
今川家から独立して間もなく、徳川家康が統治する三河では「一向一揆」が起きます。しかも有力な一族や家臣が、一向一揆側についてしまうことも起きました。
 
それをなんとか鎮圧した家康ですが、その方法論は織田信長とはまったく違ったとのこと。このあたりの違いも、まことに興味深いところです。
 
そして次の試練は、武田信玄との対決です。武田信玄との戦いで、当時8000人いた家臣のうち、1割にもあたる800人も失ったといいます。完膚なきまでの敗北です。
 
しかしこのことによって、家康はますます家臣を大切にするようになったといいます。何人もの家臣が、自分の身代わりとなって討ち死にをしていったからです。
 
しかも家康は、そこまで苦しめられた武田信玄に大いに学びます。武田滅亡後は、武田の遺臣を多く登用してもいるのです。そんな家康について、小和田先生はこうおっしゃいます。

《私はよく「信長と家康の違いは何か」という質問を受けます。信長は自分に敵対した者に対しては徹底的な排除を行いましたが、家康はむしろ自分に敵対した者でも、使えるものはどんどん取り込んで成長した側面があります》

さらに小和田先生は、豊臣秀吉政権の「中央集権制&官僚制による支配」と、徳川家康の「幕藩体制」の違いについてもご解説くださいます。
 
幕藩体制の確立においては、関ケ原の合戦の後の、家康の巧妙な仕組みがありました。「禄」と「権」を両立させない体制をつくったのです。実はそれは、そのときに始まったことではなく、すでに家康が関東に移封になったときに淵源があるというのですが、その詳細については、ぜひ第4話をご覧ください。
 
そして第5話で小和田先生は、家康のブレーン集団と、家康の死生観についてお話しくださいます。
 
よく知られているように、家康の家臣団はとても「多様性」に富んでいました。それができたのは、なぜなのか。
 
さらに、徳川家康は幾度も「もう腹を切る」というほどのピンチに直面しますが、そのたびに家臣などに諫められて一命を取り留めています。その結果、到達した死生観とは?
 
それらについても、ぜひ講座本編をご参照ください。
 
様々なエピソードを知るうちに、家康の真実の姿がおのずと浮かび上がってきます。その人物像は、現代の世でも大いに参考になるものです。否、いまこそ、このような人物が必要だといえるでしょう。
 
まさに、いまこのタイミングで学びたい講義です。
 
YouTubeではシリーズ中第1話のみ無料公開しておりますが、続きが気になる方は以下「テンミニッツTV」よりぜひご覧ください。
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