怒羅獲者・その7・朝飯はやっぱり米だよね!の巻

街は夕闇になり、ひっそりとスナック野火の看板の火が灯る。野火珠子はこの店のママだ。とはいっても、従業員は誰もいないが。カウンターで珠子はウイスキーのボトルを取り出すと、お客が来るまでの間に飲む、自分用のハイボールを作り始める。最近は若い人達の間でもハイボールが流行っているようだ。ハイボールを飲みながらあの頃を思い出す。ずっと若かったあの頃の事を、あの人に出逢ったあの頃の事を。珠子が生まれたのは熊本のいなかだった。トマト農家をしている両親と少し歳の離れた二人の兄に囲まれて育った。少し歳の離れた兄達は珠子を溺愛していて、「珠子ちゃんはかわいいなぁ。珠子ちゃんは、こんないなかには勿体ないほど美人だなぁ」などとおだてられて、わがままに育った。確かに珠子の容姿は人口の少ない、いなかにしては美少女だったが、都会に出ればどこにでもいる、少しかわいい少女の部類だった。しかし、おだてられて育った珠子にとって、自分はこんなへんぴないなかには勿体ない存在だと思い込んで育っていった。中高と地元の学校に通った。両親には福岡のミッション系の学校に通いたいと申し出たが、珠子の地元にはそんな娘はいなかった事と、珠子を溺愛していた両親は、まだ幼い珠子に寮生活をさせる事よりも、まだまだ手元に置いておきたい気持ちが強く、結局両親の反対にあい、却下された。しかし、珠子の気持ちは収まらず、大学だけは両親に有無を言わさない、東京の国立大学を受けようと心に決めた。もともと成績は良いほうだったが、そう決めてから、学校の成績は常に学年トップを取り続けた。目標は東京の国立大学、こんな田舎の高校でトップをとっていても進学塾にも通わない独力では、必ず入れる保証はなかったから、かわいいよりはガリ勉と呼ばれるようになっても、珠子は気にしなかった。東京にさえ出れば福岡なんて目じゃないから。もともと九州人は上京志向が強い人間が多い、気の強さと、一番になりたいと思う心理が強いのかもしれない、彼等にとって東京は日本で一番の場所で、そこで生きる事が出来る事はある種ステータスだった。そして春になり、望みどうり珠子は東京大学に入学した。珠子のいなかでは快挙だった。両親は渋々、珠子の東京での独り暮らしを許した。大学生活は初めのうち珠子は真面目に大学に通った。しかし、余裕が出てくると不満が出てきた。せっかく大都会東京に出てきても、両親からの細々とした仕送りでは、きらびやかな服も着れなければ、お洒落な街も歩けない、これは珠子の夢見た東京生活ではなかったから。大学の単位は落とすわけにはいかないが、大学は珠子にとってきっかけに過ぎない。珠子の若かった時代、たとえ東京大学を出てもよほど専門的だったりしなければ、女の就職口は限られていた。結婚して退職していくだけの腰掛けの役職にしかつけなかったのだ。それがわかっていた珠子は、副業をはじめた、どこかで、いずれそれが本業になるだろうと確信していた。珠子が選んだのは銀座だった。夜の蝶になった珠子の人気は上々だった。容姿は人並外れて美人とは言えないが、そのインテリジェンスにおじさま達は夢中になった。そうゆう時代だったのだ。そして、大学を卒業する頃にはチーママになっていた。その頃だった、あの人に逢ったのは、一目で解ったあの人はこれまで見てきたどんな男とのも違うと、そして私は恋に落ちた。あの人はいなくなり、けれど一粒種の伸太を残した。そんなを考えている時だった、扉が音をたてて開き、あの男が入ってきた。数日前から伸太の部屋の押し入れに居候している男だ。伸太は隠しているつもりだろうけれど、私は気づいていた。はじめはホームレスかと思ったが、いま男の目付きや体つきを見ると、まったくそうではない事が解る。たとえホームレスであったとしても、伸太の友達になってくれる事はうれしい。あの子はもうどこか死にかけているように感じていたから、しかし母である私には、母らしい事をしてあげられなかった私には、助けてあげることが出来ないとも感じていた。その男はカウンターに座ると「シーバス、ボトルごとロックでくれ!」と言った。男は立て続けに三杯あおるようにバーボンを飲み干すと、カウンターに帯のついた札束を数個放り出した。そして「これから厄介になる、足りなくなったら言ってくれ!」と言い放って、ボトルを持って二階に上がっていった。私は驚いたが、何故か不思議と、この事を当然に受け入れた。お金についても、全く不思議に感じなかった。何故だろう。翌朝、私は十年ぶりくらいに朝御飯を作った。ウインナーを炒めて、玉子焼きを焼いて、ご飯と具無しの味噌汁を作った。寝ている伸太に声をかけるのはいつ以来だろう。
「おはよう…伸太…朝御飯よ。あの人の分もあるから…起こしてあげて」と声をかけた。寝起きの伸太は少し驚いていたが、押し入れの男に声をかけ、男を起こした。三人で質素な朝食をとった。男は黙々と飯をかきこみ、伸太は嬉しそうに喋り続けた。「ねぇ母さん、この人は怒羅獲者って言うんだ…」そうか、怒羅獲者と言うのか、偽名だろうが、そんな事はどうでもよかった。三人で食べる質素な朝御飯は、とても美味しくて、私は、何故か涙が出た。これから、これが日常になっていけばいいと思った。少し変わっているけれど、これが日常になってほしいと思った。その7・朝飯はやっぱり米だよね!の巻

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?