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『メスとたましいのブログ』第34ターン;人間のエゴ

 こんにちは。金太郎さんの『メスとたましいのブログ』です。

 この言葉は正直何度も診察室で飲み込んできました。けれども先日、ある飼い主さんの口からほぼ同じ言葉、ほぼ一言一句違わずに出てきたので、ここは敢えて、敢えて、紹介したいと思います。

「家で看取る、というのも人間のエゴでしかないですよね。」

 オペをしても亡くなる可能性が高く、オペをしなければ確実に数時間以内に亡くなるようなケースでした。オペに踏み切るか、それとも自宅に連れて帰って最後の時間を一緒に過ごすのか。さっきのさっきまで元気にしていた大切な家族が死に瀕している姿を前に、最後はその言葉で決断を下すのは並大抵のことではないと思います。

 飼い主であれば誰でも、動物が苦しむ姿を見たくはないもの。だから「できるだけ苦しくないようにしてあげてほしい。」と仰られます。
 麻薬を使えば痛みはかなり程度まで和らげることができます。でも息苦しさはどうでしょう。痙攣のしんどさはどうでしょう。貧血のだるさはどうでしょう。尿毒症の気持ち悪さはどうでしょう。究極の話をすれば、我々人間が動物たちにしてあげられることは病気や怪我を治すか、安楽死しかありません。百歩譲って緩和処置までです。
 でもそれらの行為のほとんどは動物病院の中でしか行うことはできません。ご自宅に連れて帰られるということは、厳しい言い方になりますが、「楽にしてあげられる」可能性のある大部分のことを放棄するということです。

 もしかしたら動物は治療されることよりも自宅で飼い主と一緒に過ごして、最後を看取ってもらいたいと思っているかもしれません。ですが、逆にとにかく今の苦しみを少しでも取り除いてもらいたいと思っているかもしれません。それはどこまでいっても人間側の想像の域は出ないわけです。

 ここで、一つだけ確実に言えることは「家で看取りたい」と思っているのは人間であるということです。それを“エゴ”と呼ぶべきかどうか。人によって考え方は様々ですので、これが正解だと言うつもりは毛頭ありませんが、私個人としては“人間のエゴ”だと思っています。
 なぜならペット動物には最終的な決定権がないからです。自分の生涯で最大の意思決定を自分ですることができません。そういう意味では「家で看取る」のも「治療に賭ける」のも、どちらの選択をしても“人間のエゴ”と言えるのかもしれません。

 話が少しややこしくなってきました。

 先ほどのケースは最終的にオペを選択されました。ただお腹を開けた時点で既に絶望的な状況でした。そしてそのまま亡くなりました。
 飼い主さんの重い決断、責任を持つという覚悟に報いるためにも、その時にできる最大のことを提供し、その時に集められる最高の人員で臨んだのですが、力およばずの結果となったことは申し訳ない限りです。

 亡くなった後のご家族の一言が、このややこしい論争に終止符を打つかもしれません。

「眠ってる間に逝かせてやることができて良かったと思います。」

 そこに獣医療従事者が逃げ道を作ってはいけない。言い訳を準備してから臨んではいけない。けれども少なくとも飼い主さんが「これがやってあげられる最善のことだった」と心の底から思っていただけたとするならば、人間のエゴの責任を最後の最後まで引き受けられたということなのではないでしょうか。

 棺を載せたお車が駐車場を出ていくのを見ながら、決して満足できる結果ではなかったかもしれませんが、自分も「今自分が、自分たちができる最善のことはやった。」という気持ちになったことは間違いありません。

 だからこそ、自分の“最善”を追求し続けることがプロとしての責任でもあると捉えています。逆にそれしかできることがないわけでもあります。

 さぁ、今日もその最善を一歩でも半歩でも前に進めていかねば。お互い頑張りましょう!

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