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『メスとたましいのブログ』第31ターン;マサカリかついでいきます!

 こんにちは。金太郎さんの『メスとたましいのブログ』です。

 親父は生前、親しみを込めて周りから「金太郎さん」と呼ばれていました。先日その親父の命日でした。で、これを機に、尊敬してやまない親父へのオマージュとして“屋号”を変えることにしてみました。金太郎“さん”まで新しい屋号ですので、皆様引き続きよろしくお願いいたします。

 うちの親父は三代続いた町工場を、今の私とほぼ同じ年齢で継ぎました。そして時代の流れとともに企業としての役割の終わりをきちんと見極め、私はまだ未成年でしたのでそこまで詳しいことは把握していませんが、経営者や株主にだけ偏ったリストラをせず、最後まで従業員の利益を重視して会社を畳んだそうです。
 代々作ってきた製品は職人さんたちの熟練の技が詰まったこだわりの逸品ばかりで、生真面目だった親父、そして剛腕と言われた祖父の“らしさ”が形になったような製品でした。そして看板の下ろし方もまた、親父らしいものでした。

 製品やその佇まいに【作り手の人格】が映し出されるというのは美しいし、格好ええなぁと思います。その父から早々に「お前は商売人には向かん。」と言い渡された私は(汗)、モノ作りの道に進むことはありませんでしたが、教育業界に身の半分を置き、授業という“コンテンツ”を作ることになりました。実はそのコンテンツに関して最近、悩んでいたことがありました。

 授業に魂がこもっていない感じがすると言いますか、、、自分で作った授業資料ですら誰か他人が作ったような感触があり、喋っている言葉も自分の言葉でないような、そんな感じがここのところずっとあったのです。
 今思えば、、、もしかしたらコロナ禍でリモート授業やオンデマンド授業が始まった頃から、すでにそういう方向に進んでいたのかもしれません。

 そんなモヤモヤが続いていたのですが、つい先日、犬の散歩をしながら昔買った『平成進化論』の鮒谷さんのある音源を聴いていましたところ、モヤモヤした視界がぱぁーっと開けるような言葉が聞こえてきました。繰り返し何度も聴いた音源でも、聴く時、聴くシチュエーションによって引っかかるところが違うというのは、まさしくこういうことだと感じました。

 ざっくり趣旨を述べるならば、、、

「コンテンツを提供する時はそれだけを切り分けない。ノウハウ、ハウツーだけを渡すわけではない。それらも発信する人の人間性に紐づいていてこそ厚みが出る。」

 これだ!と思いました。

 自分自身が気づかないうちに「大半の学生に受け入れられやすい」かつ「すぐに学生たちが役に立つ(と、こっちが勝手に思い込んでいる)」授業をすることにばかり意識がいってしまい、そこに自分の人間性が紐づいていない状況になっていたんですね。つまり【私ではない誰か】でもできる授業、話をしてしまっていたということです。
 もしくはシラバスという名の呪縛に縛られ、いやむしろそれに甘える形になって、「これだけやっときゃいいでしょ。」とすらなっていたかもしれません。それだったらなお悪い。

 以前にUdemyでコンテンツ販売をやったことがあったのですが、意気揚々と臨んだにも関わらず、私にはなんとなく合わなくて鳴かず飛ばずで終わったという苦い経験がありました。その「なんとなく」合わないというのも、今思えば「コンテンツを切り分けて提供しないと見向きもされない」というフォーマットに、自分が馴染めなかったのだと合点がいきました。
 もちろん人それぞれですから、そういう提供のしかたが合うという人もいるでしょう。ただ私は合わなかったというだけです。

 授業も一緒で、私にとって合う形はやはり【私自身の魂に紐づいた話を提供する】というスタイルということになるのだと思います。単なるノウハウ、ハウツーだけではなく、それを生み出すに至った背景の話も込みで伝える。渡す。

 いやー!本当にスッキリしました!改めて鮒谷さんに感謝。そして音源を買った過去の自分に感謝!

 さぁ、お互い今日も魂込めた仕事をしましょう!!

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