小説原作の映画について 

 今日また泣いてしまった。

 『52ヘルツのクジラたち』の映画をみて2週間が経とうとしてる。最初は原作は読まなくていいかなと思ってしまっていたけど、1週間経って読まなきゃとなって読んだ。
 本当に読んでよかった。読まないと自分は損をしてた。

 映画ってあんまり見なくて、大好きな原作が映画化したら見に行く程度。たとえば住野よる原作『青くて痛くて脆い』や瀬尾まいこ原作『そして、バトンは渡された』は映画化もよかった。(原作のが良かったという作品も個人的にあるのだが。) 
 まあ、そうはいっても原作を超えたかといわれると胸を張って頷けない。くてくての花さんは素晴らしい演技だったし、そして~も原作の梨花さんの続きを見られてよかったのだけど、原作を知っていると「どうしてそこかえたんだろう…?そんな根本なところかえちゃうの?」なんてこともあったりして。よくも悪くも原作を読んでいくことにより映画化したその作品をまっすぐに受け取れなくなる。それってとてももったいないなぁとも思うのだ。
 52ヘルツ~は原作を読まずにみた。だからか、ただ映像から渡される情報だけを頼りに心が素直に動いていって、たくさんの感情になった。「ここ原作と違うじゃん!」の感情は煩わしいのだと思った。
 しかし、もちろん映画を先にみるのがわたしの正解ではない。
 映画をみてから初めて読んだ52ヘルツ~は、脳内で常に杉咲花演じるキナコがいて、志尊淳演じるアンさんがいた。原作を先に読んだ人は志尊淳はアンさんのイメージと違った(がよかった)、もう少しおじさんでふくよかな感じ、という声があって、わたしにはもうアンさんは志尊淳さんのアンさんだからそれ以外のイメージが現れなかった。(強いていうなら背は高すぎ?)原作は映画ほど恋愛の愛としては描かれてないと監督が言っていて、それも、そうだったかな?と感じてしまっているので、つまり映画の情報が優先的に思い切り反映されているのがわかった。
 ここからネタバレします。52ヘルツのクジラの声を教えてプレイヤーをくれたのは美音子というルームメイトだった、ということに驚いた。アンじゃないの!?という衝撃。これは原作読んでからいってたら絶対涙の裏で余計なこと考えていた。キナコに真樹という弟がいたこととかも。
 ただ今回は映画→原作の順でよかったなとすこぶる思うのだ。
 純粋にただ涙できたことがよかった。そして、原作ではより深く書かれていて、たとえばキナコが映画での場面以上に母に愛されたかったのだと強く願っていたことや、新名と付き合っていてもアンさんはあの時のまま美晴と同じ感じで胸の中にいたこと、いつでもアンさんに助けを求めて寂しさに潰されそうになっていたりとか、愛の母―琴美のことやその両親のこととか、アンさんのお母さんが少しだってトランスジェンダーについて理解してなくて顎鬚そられて化粧された挙句ヴェールを被せられたりとか。そしてなにより、愛とのこれからについて。映画では尺的に難しいであろう愛のこれからのことを丁寧に描いていて、映画の続きを原作でみた、という感覚だった。「わたしが守るから、帰ろう」キナコの言葉はすこしだって嘘じゃなかった。口だけじゃない、ちゃんと傍で生きていくための最善の選択を選んでくれた。二年後、どうなっているかなんてわからないけれど、幸せであってほしい。

 そうだ、そういえば映画ではキナコはアンさんに新名とは別れた方がいいといわれ、キナコと呼ばれた時、幸せくらい自分で決められる、わたしはキナコじゃない、キコだよと言い切った時のキナコは原作になかった(なかったよね?)。やっぱりあのシーン、すごく印象に残ってる。人って簡単に忘れる。ちがう、忘れたんじゃなくて人って変わっちゃうんだと思った。キナコという名前は宝物みたいなものだったのにそれを捨ててしまうキコ。アンさんを永遠に失ってから気づくこと。
 アンさんは死んだ。あの死の意味。アウティングが一番最低な行為だったと思うのだけど、それで原作の母親を読んでより一層、母親には言えない、バレてしまった時の絶望はものすごいものだったんだと伝わった。友人がいうには人はなんでもない時にぷつんって「あ、むりだ」てなるからそれなのかなって思うと言っていてなるほど、と思った。そしてその死に意味を持たせたのだと思った。一番大事なキナコを、大切なキナコの幸せを祈っている。文字通り命を懸けて新名に懇願したアンさん。キナコの為に。キナコの幸せの為に。新名は読まずに燃やしてしまったけれど。
 原作のキナコはすこし、不思議だった。新名のことを恨んでなどいなかったこと。新名は本当に優しい人だった、それをわたしのせいで変えてしまったのだと思っていた。キナコ正気?てちょっと思ってしまう。結婚相手がいることをアンさんは知っていてキナコに忠告をしていて、そのときから既に優しい人ではないと思うのだ。どんなに好きでもやってはいけないことがある。新名の父親も愛人がいる時点で、その愛人ににこやかに挨拶をして店に訪れる時点で、新名は『誠実で優しい人』では決してないと思うのだ。映画のキナコと原作のキナコの、包丁のシーンはほぼ同じだけれど、読み取ったものは結構違った。映画のキナコのほうがすきだった。言葉こそ発していなかったけど、新名の前で自分に包丁を突き刺そうとするのは新名に見せつけている、というふうにわたしには映った。アウティングをしてアンさんの人生を奪った新名。新名は俺だってやられたんだからという。浮気をして愛人にしてそれが誠実な生き方ではないやつとアンさんへのアウティングを同じにするなと殴りたくなる。そして命を懸けた新名宛の遺書を簡単に燃やしてしまう新名。そんな新名にキナコは怒り憎んで、同じくらい自分のことも憎んで死ななければならないと思って憎い新名の前で自分を殺そうとしたのだと。原作のキナコは新名を変えてしまったことも同時に反省をして殺そうとした。
(友人:新名のキコへの愛は最初は嘘ではなかったと思う。それがどんどん、キコの世間知らずさ(もちろんあの家庭環境のせいだけど、)が際立って自分でどんどん教えていくのに優越感みたいなの感じて歪んでしまったんじゃないかな。
   とがわ:言葉遣いからも人間性ってでる。俺のものだ、とか個人的には強い表現で苦手だ。アンさんの温かな声、丁寧な話し方、優しい言葉選びからアンさんの性格がうかがえる。新名は最初からそうではなかった。キナコが魂の番はアンさんだよと言えていたらどんな未来だったんだろうって思わずにはいられないよ。)

 第二の人生はアンさんがいなくなって終わった。
 例えばそれが恋愛の愛じゃなくても、性欲ありきの愛じゃなくても、ただ大好き、愛してるといってもいいと思えるのはなんて素敵なことだろうと思う。大好きで、大切で、相手も自分のことを大事だと思っていてくれて幸せを祈ってくれている。そんな人が近くにいるから、新しいことにも突き進んでみようと思えて、幸せをつかもうとできて、頑張れる。それなのに、そんな存在だったアンさんは死んで、自分が声を聴けなかったから死んでしまって、もう二度と会えなくて、終わってしまった。という表現はすごく共感した。
「でも過去には戻れない。わたしを救ってくれたのはアンさんで、その事実は決して変わらないのだ。」

 とにかく、『52ヘルツのクジラたち』という作品はわたしの心に深く刻まれたのだ。本当はもっと語りたいと思う。語りたいって人は声をかけてね。


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