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あとまわしの正当化

また、車検の予約をとり忘れた。

「4月中のご予約がお得!」という案内がとどいたので、こりゃあ予約せねばと思い、はや1週間。案内状は、場所を1ミリも変えずにダイニングテーブルに鎮座している。コーヒーを飲む時、ご飯を食べる時、ティッシュをとる時…。1日のうちに何回も、緑色の案内状を目にしているはずなのに、目にするたびに「車検予約しないと!」と思い出しているはずなのに、しない。

物事をあとまわしにする。あとまわしにして後悔する、というエピソードでよく語られるのが、夏休みの宿題だと思う。最後の最後に手伝ってもらいながらなんとか終わらせた、という話はよく聞く。かくいう僕も、最後の1週間でヒーヒー言いながら計算ドリルと漢字ドリルを終わらせた記憶がある。1日1ページでもやっておけば、終わったのに…と後悔した夏の終わりは多い。

しかし、記憶を探っていると、全部を1週間でやっていたわけではないことを思い出してきた。読書感想文だけは、早めに取りかかっていたのである。本を選ぶのも夏休みに入ってすぐだったし、読むのも早いうちから取りかかっていた。本を読むことも、感想文を書くことも嫌いじゃなかったからだと思う。

つまり、何でもかんでもあとまわしにしているわけではないということ。「めんどくさくなって、あとまわしにしちゃうんだよなぁ」と思っている人も、何かはあとまわしにしていないはず。そして、あとまわしにしていないものを思い出せないのは、それはタスクの認識がないほどに習慣化していたり、好きでやっていることだったりするのだ。

人の数だけ、優先順位がある。それを外野から「その順位じゃダメだ!」というのも、どこかおかしい気がしてくる。その人はその人の生き方で、優先順位が決まっているのだ。早くから遊びを優先して計算ドリルがあとまわしになろうが、先に計算ドリルを終わらせてから遊ぼうが、どちらがいい悪いは一概には言えないのだと思う。

…という話をして、車検の予約をあとまわしにしていることを正当化しようとしている。流石に、安全に関わることだし、法律で決まっていることだし、計算ドリルや読書感想文と同じ土台で話をしてはいけないだろうと思う。というか、まったくの土台はずれだ。正当化、失敗。

明日は、ちゃんと電話をするぞ。

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