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変わらないもの、変わるもの。-上田久美子先生退団によせて-

2022/3/31付で、宝塚歌劇団の脚本演出家、上田久美子先生が劇団を退団されました。

よくわからない噂は3月末から出ていましたね。
ソースもないので反応しないようにしていたのですが、残念、確定してしまった。

残念、だけれども。
本当に心の底からものすごく残念なのだけれども。
まったくさっぱり意外ではないな、というのが、正直な感想です。

いやだってヅカファン、上田先生からの「観客としての信頼」を失ったじゃないですか。
桜嵐記を(当時は見られなかったので映像で後追いで)拝見したとき、私はこの感覚がなにより衝撃的でした。
あまりに「わかりやすい」。
そして、傷となってほしい、そう制作側が願っているセリフが、場面が見えない。
美しいけれど、それでおしまい、のような。やたら空虚な感覚が訪れてしまって。
「受け手を信用できない創作」、「受け手のためだけに構築された創作」が、そこにある、ように見えてしまった。
創作者にとって、これほど、やっててつまらないものはない。
と、拝見しながらオンラインの端っこのしがないものかきな私は思ってしまったのです。創作とはきずをつくること、でありたいのだ。
いやこれは私の永遠の中二病テーマなんですけど(笑)
上田先生も、なんか、そういうタイプじゃないかなって、思ったんですけどね、それこそfffで。


私は彼女の作品の中で、おそらく「翼もつ人びと」が一番好きです。
おそらく、というのは、まだ多分時期が来なくて見ていない彼女の作品が複数あるから。

感想をTwitterにもnoteにもたくさん書いたfffは、決して長くない宝塚ファン歴の中、どの公演よりたくさん観に行ったfffは。
なんというか、消えない、消したくもない、痕です。

創作、舞台芸術、人間とは、今、この時代において芸術が存在し継続していく意味とは。
おりしもエンターテインメントが十把一絡げに蔑ろにされていた真っ最中、彼女の嚇怒が、絶叫が、特に開幕当初は本当にびりびりと聞こえてくるようでした。
それが「退団公演」という個々の感情がからんでいくことで舞台との接続がなめらかになり、第九の「歓喜」として、さいごには昇華されていくような。
そんな、不思議で愉快すぎる、何度見ても、私にとっては新鮮におもしろい舞台でした。

こんな精神論、人間論を中心に据えた思想劇がこの場所で見られるのか、と。
勉学を、学びを、こんなにも真っ向から肯定してもらえるのか、と。

そこに、とても感動してしまって。
いたく感銘を受け。
けれど一方「わからないからつまらない」「娘役が恋人じゃないなんて」という、そこだけで止まった感想をいくつも目にしてしまって、ええ?となったものでした。
「思考せよ!!」「これをどう思うのだ!!」って、全編が叫んでたのに…?
(あのトップコンビに素直に歌わせない時点で、好みがわかれる話だなあとは当初から思ってはいました)
(ロシアは長さ的に半分でよかったなと思う)


続く、彼女の退団作であった(と今になって分かった)桜嵐記は、私は直接劇場で観られていません。
私が知っているのは、見ることができたのは、なので、最近になって放送された映像のみです。
どうしても私は、一定レベル以上の音楽を求めてしまう性質なので
(そういう私をここへ引っ張った望海さん真彩さんこそがどちらかといえば「例外」だったのは重々承知していますし、これだけがタカラヅカの評価点ではないことも理解しています)
でも、どれだけ素晴らしくても、きっと要らんケチをつけたくなってしまう。
喧嘩を売りたくなってしまうと、そっと薄目で避けて通っていました。

んでもって。
ふと見てみようという気になって、映像で、見て、驚いた。

あまりに想像の余地がない。考察するすきまがない。
美しい悲恋物語ではあるけれど、舞台構築のうつくしさには、相変わらず目を瞠るけれど。
でも、描きたいセリフは?描きたい場面は?
人物に込められた、強い、主義、主張、そういう類のものは?

桜嵐記では、fffを観たときに感じた彼女の怒り、絶叫のようなものを一切感じなかった。
抱いてしまったのは「これが好きなんでしょう」「これがいいんでしょう」と、わかりきって、冷静に場面場面を差し出されているかのような感覚だった。
実際、当時は絶賛だった。これが観たかった、なんて美しい素晴らしい退団公演!という、称賛をたくさん目にした。
でも、映像後追いの私はなんだかとても困った。
だって桜嵐記では、劇中の人物がだれも成長しない。
強いて言うなら三男・正儀なのだろうけれど、でもそれこそ、強いて言うなら、でしかなく。
これは正行の物語であって、正儀の成長を描く物語ではない…し、実際、彼の変化は、そこまできっちりと描かれない。
いやそういえば弁内侍は変わるのか。変わるけど、でも、だからといって、ただ「恋をする」だけでは…恋をしたからといって、なにをどう変えられるわけでもない、というのが…ううーん…??
誰もが、変わらずに生きて、そして桜が散るように死んでいく。
うつくしい悲恋。番手と、それぞれの役者の特性を生かしたうえでの割り振り。
でも流れってなんだ。考えようにもヒントがそもそもない。
ないのに疑問だけ募る。それは南軍全員もろとも、死ぬ価値が当然にあるものなのか。なんなんだ。

確かに桜嵐記はとても美しかった。美しかった、けれど。
世間の絶賛は理解できるけれど、なんか、ヅカファンそれでいいんか?ナメられてない??物語読解を諦められてない???と、正直、すごく思った。
コンテクストを、読めない、読もうとしないならって、
根本から取り上げられちゃってない??
ねぇいいのそれで???私だったらいやだぞ…????


と、どうも消化不良の思いを抱えていたら。
今回、我々に話が伝わるころにはもう彼女は劇団にはいない、である。

そうだよなあ、と、まず思ってしまった。
上田先生は。
もっと政治や思想、なんらかのものに虐げられた人びとのことを、直接的に描けるほうがいいんだろうな。
むしろそういうものこそが、反攻の叫びこそが、彼女のたましいの通奏低音なのだろうな。
すみれコードというヴェールは、今の彼女には、もう、ある意味では邪魔なものでしかなくなっているのだろうなあ。

期せずしてfff/桜嵐記を比べて、強く感じてしまっていたところだったので、彼女がこの花園を去っていくことに、特に驚きはありません。
彼女をこんなふうに去らせる劇団には驚きが隠せませんが。
なんで(良くも悪くも)彼女ブランドがタカラヅカファンの中で形成されていたのか、ちゃんと評価した?考えた?そのうえで、彼女を手放すことを選んだの?
本当に????

ひとまずは。
なにもリミッターがなくなった彼女の作品が、今後、あらわれてくることを楽しみにしています。彼女の未来に幸多からんことを。
あとはタカラヅカは、早く脚本家の世代交代してくれ。
交代できないならせめて、ポリティカル・コレクトネス補正ができる第三者をちゃんと公演開始前に配置して、ファンからの指摘を喰らう前にあらかじめ是正できる体制を整えてくれ。
彼女手放すより前に、変えなきゃいけないところ複数あったでしょうに。
今この時代の「不変」は、後退と同じだと思うけどなあ。

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