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信じるのは何?~月組公演「Eternal Voice」観劇感想

大千穐楽も無事に終わりましたこちら。

当方、宝塚大劇場公演の開幕から2週間くらい遅れで観劇し、そこから何回か現場に入る機会をいただきました。
で、初見時、観劇して。
ショーまで見終わった感想が。

「なんだあれ…???????????」

でした。(笑)
ちなみにこの大量のはてなマークは、大体が彩海せらさんに宛ててのものになります。彼女の進化が、まさにめきめきと音が鳴らんばかりの凄まじい勢いであった故。
このmy初見の日、友人(観劇済)とマチソワすれ違いだったので公演後に会ってちょっと話をしたのですが、そこには「ねえなに、…ねえっあれ、ちょっと、ねぇ~っ!!」と、謎に友人の腕をバシバシ叩きまくる私がおりました。ごめん。笑われました。感想が感想になってない。
前回のバウでも同じことをしました。いつもすまない友よ。

落ち着くためにSarahさんでモシャリ。

カロリーはおいしい


ロイヤルミルクティーが好きでよくいただいている。スコーンも美味。

…ふう。(一段落)
しかしやっぱり感想を見ていると、ちょくちょくあみちゃんに背後から撃ち抜かれてヒェッ…ってなってる方をお見掛けするので、ニコニコするので、
大千穐楽も終わってまあまあ落ち着いたところで、その衝撃を改めて言葉に起こす努力をしてみようかと思います。
ひとことでまとめてしまうと「この子やば…おもしろ…やば…」なんですけど、そこで終わりにしちゃ味がないですからね!

※本記事、大変申し訳ないのですが、
(いつものことながら)徹頭徹尾彩海せらさんについての話しかしません。悪しからず。※


消え残るものたち

あの姉弟

マクシマスとエゼキエル。
マクシマス(「もっとも大いなる者」というラテン語) と エゼキエル(旧約聖書エゼキエル書の著者である予言者。神の招令を受ける幻を見ることからはじまり、エルサレム陥落によって希望を失った民の復興へのよりどころとなる)。
歴史の正典からは消えた中で、それでも消え切らず残っていた血を、犯罪者として今度こそ完全に消してしまった、ものたち。

歴史上における「エゼキエル」のひとくち解説なんかを読んでみると、わりと劇中で「彼女」が辿る道すじそのままに思えたりもする。
うーんどうなんだろうなあ、もしかすると二人の本名は、マクシマスでもエゼキエルでもないのかもしれませんね。
たった1回の「姉さん」からしても。ふたりの間にどれだけ年の差があるのかはわかりませんが、それこそ「義姉弟」であるところからしても、もしかすると「マクシマス」を名付けたのは「エゼキエル」なのかもしれない。ほかのものであったところから、自ら「エゼキエル」を、彼女は名乗ったのかもしれない。
ゆえに「エゼキエル」を呼ぶときのマクシマスはなんだかいつも面倒くさそうで、最後のさいごに本気で彼女を気に掛けるあの瞬間だけが「姉さん」なのかもしれない。
かも、しれない。

わかりません。何もかもただの妄想でしかなく、他に拾い上げられる情報も本編中にないので。
ぜんぜんわかりようもない「かもしれない」でしかないのが、どうにも残念なところ。
想像の余地、なんていえば聞こえが良いけれど、複数人がある程度の確証をもって同様に推し量ることができないのであれば、それって結局は単なるいち個人の妄想に過ぎないんだよねえ。そういう残念の範疇に収まってしまうものでしかない。
やれやれ。
ため息をつきながら。

「もっとも大いなる者」

その冠すべき(と「姉」は言う)名に反して、舞台上の彼はなんとも滑稽だ。
なんなんだよあのカラスの頭。なんでジェリーなんだよ。なんで毎回祭壇のレイアウトがちまちま違うのよ。東宝の前楽でカラスの頭がおしゃれしてきらきらしてたのに噴き出したのは私です。
エロイムエッサイム(ヘブライ語で「神よ悪魔よ」)だったり、やたらにキテレツカタカナな(ちょくちょくラテン語がまざってる)困惑必至の呪歌。なんかいろいろそれっぽいもののつなぎあわせ、でまかせ。
呪歌、だいたいいつもどういう顔して観てればいいのかわからない。
滑稽なのに、マクシマス、立っているだけでやたらに陰鬱に存在感があるわ顔がいいわ声がでかいわ、三段くらいの小さい段差を結構な勢いで昇降してたりとかめちゃくちゃ動いてるのに全然ブレない声。もうなんなの、見ているこちらはただ笑って面白がっていればいいのか、なんなのか、どうなんだマクシマス。わからんよお(おじさん風)

お互いにお互いの力を「中途半端」と罵りあうエゼキエル・マクシマス姉弟は、それこそ主役のふたり、ユリウス・アデーラとは対極だ。
姉弟は実際には何に導かれることもなく、信じて崇め奉り、継ごうとしていた遺志は「読み違え」。ふたりが(少なくともエゼキエルは)原動力としていた「悲劇」はそもそも存在せず、ゆえに独断独善の暴走は罪となり、断罪され犯罪者として捕らえられて終わる。
一方で主役となるふたりは、女王の「消え残る声」を聴き取ってその遺志を正しく汲んで動き、最後には爵位と勲章と、女王とのつながりを手に入れる。

……改めてニュアンスだけ抜き出してみると、そこそこ綺麗な対比なんだね。
へーって思ってしまうね。思わざるを得ないぐらい、実際の舞台上では、正直このふたりがどこまでユリウスアデーラと対比したい構造になっているのか・いないのかがよくわからないからね…。

きっとユリウスアデーラも、マクシマスエゼキエルも、だれもかれも幼いころから、「ちがうもの」としての目を周囲から向けられていたのだろう。
なのに、ほんの少しの違いで、こんなにも違う道をたどってしまう。
と、いう想像をすることはできるが、大変遺憾なことに、またこれも全然情景として舞台上で映されない。なので、まあ多分そう…なんだろうけど…という想像の域を出ない。全然出られない。
出られないので、私みたいな考察したがりオタクは、思考して噛み砕くという作業が十分にできず「えぇ…?」ってなって終わる。
マジで遺憾が過ぎる。

信じる?

この劇中、観客はずーっと試され続ける。
舞台上で何を示されずとも、セリフだけで「その状況」を信じきる力。私には正直、ほぼゼロといっていい力。
そもそも姉弟の「力」からして、それぞれ本物なんだろうか。
観客側からも、お互いのお互いに対する感覚としても、はたしてあれは信じ切るに足るものなのか、わからない。「降ろせない」で「演技するときもある」というエゼキエルの一言が、また何とも聞き心地の良くない雑音になる。
ほんと、正直なんにもわからない。この話。
わからないのはそれこそユリウスアデーラの「メアリー・スチュアートの遺志」を徹頭徹尾に信じ切ってぶっ飛び爆走全力全開なのもそうで、まあとりあえず私に向いてる物語じゃないことは初見のときから明確だった。うん。知ってる。

私は幸か不幸か霊的なものと縁遠く、現実に目の前にいる人間のほうがずっと怖い、という生活をしている人間だ。
別に「そういうもの」を否定するつもりは一切ないけれど、ただ、なにしろご縁がないゆえ、今回みたいにただ「力」とか「遺志」とか、登場人物たちの言葉で言われ続けても、まったくもって、なんにも響かない。
せめてなんかもうちょっと観客側にも視覚・聴覚、なんかそういうもので見せてくれないとなあ…。ただ「そういうものがある!」と口で言ってるだけでは、私という個人への説得力がゼロなんですよね。
というかこの物語って、何につけても全部がそうで。
下級生の出番増やす意味でも、もうちょっと「舞台上の景色」を頑張ってほしかった。というのが、割と正直な感想です。
欲しかったものはものすごくいっぱいあるんですが、とりあえず幼いユリウスアデーラくらいは、場面としてあって良かったんじゃないだろうか。付随して、狂い死んだ(たぶんね)アデーラの母の場面とかも。アデーラが自らの力を恐れる理由づけとして。
なんかもうモヤモヤするんですよ。ぜーんぶ「こうだった」って言うだけなの。自分のこと「無口」って言うユリウスの言葉にまっっっっったく説得力がないところとか…ほんと、さあ…。

などなど、モヤつきを挙げだすと正直キリがない。
あと私はいまだに、どうして終盤の地下場面で、マクシマスがユリウスに殴られなきゃいけないのか、理由がまったくわからないでいる。
タカラヅカ…であってもなくても、「主人公が敵側に純然たる暴力をふるう」って、相当の理由がなければ絶対にやってほしくないこと筆頭なんですけど。
ムラ後半では些細でかわいいアドリブ交流場面になってきていたあの時間が、あんな無意味な暴力場面にされてしまって、ホント最悪に不愉快でした。そういう部分に関してはそこそこだったはずの、正塚先生に対する信用が一気にがた落ちした瞬間でした。
しみじみどういう理由だったわけ?
何を言われたとて、どうせ納得できない気しかしません。

けれど。
それでも「大いなる者」の名を舞台上の役名として与えられた彩海せらさんは、絶対的に、これまで大劇場で見せてきたどのお役より陰だらけの美青年として舞台上に在る。
なんだろ…わからん…顔がいい…って思いながら見ていると、まあ、だいたい本編が終わる。
本当に申し訳ないぐらいに私に響いてこない話なので、トップコンビに関する感想も「その霊的存在に対する全幅の信頼と全身全霊全力投球の理由をこっちにもせめてあともうちょっとだけでもちゃんと教えてくれないかなあ」に尽きてしまう。
「そこに対する説明がないのがこのふたりらしいのかもしれない」とおっしゃっているトップコンビファンの方がおられて、まあ、トップコンビファンがそうやって納得できるのなら、別にいいのかな、と、思う心も、いちおうある。
コンビ同時の退団公演における、一番の重大事ってそこかなあとも思うし。
たとえば私は「退団公演としてのfff」が心の底から大好きだけど、ヒロインが周囲とのかかわりが希薄だったりコンビでの恋だの愛だののシーンがわりと皆無だったり「恋愛して幸せになる」話ではどう足掻いてもなかったりして、それを嘆くファンの声も当時、ちょくちょく見たりしたしな。

うーぬ。
って思いながら、水分補給したりしながら感想をぽつぽつして、つづく、ショーへ向かう。

GRANDE TAKARAZUKA 110!感想


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