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月組バウ"Golden Dead Schiele"感想④ひたすらに連ねる

本当にこの作品好きだったなあと、書けば書くほどに思い返せるGolden Dead Schiele。
先日公開になった舞台写真のチョイスがどれも最高だったのがまた、うれしかったなあ。

などと思いながら、ひきつづいて2幕も好きなところを並べていきます。

・夜会

あんな終わり方をした1幕ラストから、次はどんな始まり方をするのかと思ったら。
タカラヅカ的、華やかな夜会が始まった。みーんな優雅に踊る。
でもって。
「私がギャツビーです」来ちゃったー!?(違)

いや一番面白かったのはここだけど、熊倉先生、あみちゃんのギャツビー新公絶対見てたんだと思うんだよな…。見たからこその、あんな、「真打登場」とでもいうような登場の仕方で上手階段上からパッと現れる演出とか、あとは、また後でうるさく語りますが、ラストの背中とか…。
んでもって、あんなに華やかに現れるのに、ダンスで組めるひとがいなくて、踊るひとびとの間を迷子のような顔でさまよい歩くのがね。やがて悪夢に襲われて、無表情に迫りくる「ひとびと」の波に押し潰されそうに「やめてくれ!」と絶叫するのがね。
それこそ彼の精神の若干ならぬ不安定を描き出すような、あのゆがみの演出がとても好きです。
またここの「やめてくれ!!」が、日を追うごとに迫真になっていくのがすごかった。
そりゃあみちゃんもそこで声かけてくれたハルムス姉妹に対して「タイミングが、とてもいい!」って言っちゃうよ。すぐあとに自分で「いや…いい…のか…?」ってなってたけど。
そういうとこかわいい。突然やってくるかわいい。おとなり・うしろでいつも見守ってくださるるねさんの、慈愛に満ちたほほえみに何かついンフフってなってしまう…w

じゃなくて。
そんなエゴンの精神のゆがみを断ち切るように、エディトが「大丈夫?」と声をかける。
そしてここ、声をかけられてからのエゴンが、とんでもないスケコマシ野郎なのが毎回ギャー!!ってなる。
この夜会のあみエゴン、どこかけだるく物憂げな、危ないオスの顔をしているんですよ。全然乗り気じゃないくせに、ダンスのために差し出す手のひらがあまりにもキマってて猛烈にカッコいいんですよ…!
そりゃあハルムス姉妹みたいないいとこの純粋培養お嬢さんなんてイチコロ(死語)ですよねって、この日からずっとエゴンの話ばっかりするよねって、ものすごく納得してしまった。ひえええええあみちゃんが…あみちゃんが危うい魅力を醸し出すオトコノヒトの顔を…。
それこそ一幕ラストからこの場面に至るまでにもさらにあったのだろう「なにか」によって、エゴンのおもざしの影は明らかにそれまでより色濃く、そして、捻じくれている。
その陰影に「男役・彩海せら」の甘やかさがにじむことで、なんか、…なんか、もう、何、なんだろう、なんなの??
これまでのあみちゃんから感じたことのなかった類の危ない色気、香気を感じてしまって、割とほんとにめまいがしました。明らかに触っちゃいけない色男がいた。
いつからそんな…そんな…あみちゃん…ああ…あみちゃんよ…。

・おかえりなさい

そこから姉妹を家に送り、自分の家に戻ってきて。
下手のセット階段上からあらわれて「帰ったの」と声をかけるヴァリに、エゴンが振り向いて返事をする瞬間が好き。
二人を送った、というていで、この瞬間のあみエゴンは、どちらかというと舞台の上手奥のほうをむいている。何の気なしに「ヴァリへ振り向く」なら、反時計回りに、客席側には背中を向けて振り向いてしまった方が早い。
でも、ここのあみちゃんは、絶対に、時計回りに、客席にむかって一度体を開いてからヴァリへと振り返る。
それこそ舞台人としては基本の技術なのだろうけれど、それをきっちり、毎回、ちゃんとやるあみちゃんの、その篤実さがすてきだなあと毎回思う場面だったりする。

そしてそこから続く、2幕で唯一のしあわせなデュエット。
しあわせな!デュエット!!
なんだけど、微妙に二人の感情の方向性とか、強度とか、そういうものが噛み合いきれてない・おそらく意図的に噛み合わせていないのが面白いな、と、思っている場面だったりする。見れば見るほど、ここのエゴンが盲目的にヴァリにやさしくなっていくのがとても印象的だった。
いちばんのポイントはむろん「盲目的に」。エゴンにとってのヴァリって、あんなことがあってそれでもなお一緒にいてくれる稀有の相手なのに、「自分にとっての大事なもの」という認識は確かにしているのに。
なのに、大事にしかたも、たいへんに自分勝手で、ヴァリの言うこと1/3以下くらいしか聞いてなさそう…。
そんなように、少なくとも私というものの目には映った。
そんな無茶苦茶の奔放をあのやわらかい笑顔で普通に受け入れているヴァリは、本当に精神年齢が高いし、女神様なのかな…?と思う。
勝手に大事だって言うエゴンと、私はなんにもできないのよって笑うヴァリ。
そういう段差が何となく見えてしまう、ただお互いにお互いのことだけを考えて幸せ、なだけにはどうも聞こえないのが、個人的にはとても好きなデュエットです。
私の勝手な聞き違いだったら、それでも全然いいです。うむ。

・不幸な結婚式

こいつは妹のハレの日に、一体なにをやっているんだ???
という徹頭徹尾なクズ加減が、もはやいろいろ五周ぐらい回って面白くなってきてしまう場面。
なんで祝いの席で新郎と殴り合いして母親とも喧嘩して新婦な妹を突き飛ばしてんだこの男…。

というところがまず印象に残るここですが、場面転換のしかたがとても好き。
(あみちゃんたちのお衣装替えの関係もあって)上手側だけ幕をおろして、開いている下手側セットの階段部分で結婚式。その最中に上手側にセットされる「祝いの席」へエゴンとヴァリがやってくる…という。舞台上がまっくらになる、バミリを眺める虚無の時間が最小限に抑えられているのが、とてもよい。
かったるそーにめちゃくちゃ尊大に椅子に腰かけてるエゴンがあまりに何様なのも、その傍らのヴァリが対照的にどこか所在なげ(だというのにエゴンからのフォローは生憎一切ない…)のも印象的。

からの喧嘩。がちばちの喧嘩。
エゴンと母の言い合いは見るたびごとにヒートアップ具合が恐ろしいレベルになっていくし、あみエゴンがるおりアントンに振り上げる拳がいつだって鋭すぎて、いつか本当に当たってしまうんじゃないかと無駄に心配になるほどのブチギレ具合で。この一切合切の躊躇のなさが、場にいる全員の息苦しさになって、客席にまでやってくる。
本当に見るたびにどんどん喧嘩のグレードがアップしていくので、内心でひえぇえと思いながら見ていました。拳着弾しなくてよかったよ…。

そしてこんなひどい場面を経て、「私たち、一緒にいない方がいいのかもしれない」と言い出したヴァリまでもが、エゴンのもとを去って行ってしまう。
ここで「どうして」「行かないでくれ」「お願いだから、僕のために行かないでくれ」って、強くすがれないのがね。ヴァリがほんとうは心の中で求めてきていたことを「なら、今からでもやろう」とも言ってあげられないのが、エゴンだなあと思う。
あまりにも不器用で感情の発露が下手で、自分勝手な奔放が、こんなところでまでも過ぎる。

というところからの。

・僕は何者だ/彼女はなにものか

ここまでの状況を思い返してみれば、その何もかもが完全なる彼自身の自業自得の結果でしかない、つまるところ、「クズの嘆き」だと言いきれてもしまう場面なのですが。
なにせ、曲が、そして声が。
ただただ彼女の力量をもって勝負に行くシンプルなまっくらの舞台の上がさ。
本当に彩海せら史上、間違いなく最っっ高に良くて、さあ。(私しらべ)

「僕は何者だ」と叫び歌うこの曲、今作品のあみちゃんのソロ曲の中でも、個人的にいちばん印象深い大好きな曲です。
結婚式をめちゃくちゃにして、ヴァリとも離別し、ひとりになって、残されて独りきりで歌う、絶望と慟哭の曲。
派手な演出も、感情を後押しするコーラスも誰との掛け合いもない。
紗幕一枚引いた後ろでは、おさなき日のかれがまた「父」に絵を取り上げられ泣いている。

まっくらの舞台の上でひとり、ピンスポットを浴びてエゴンが慟哭する。
装飾記号だらけで曲中に突如拍子も変わる、この難しい曲を、役としての感情にのせて、彩海せらがうたう。

そのたったひとりが、劇場中を支配し、感情のままに訴えかける。
ほそいからだの内側から、鳴り響くように、曲と、舞台のうえのかれと、受け手側の、自分だけがある。

そんな極限の集中の音楽を、他の誰でもないあなたが、彩海せらさんが紡ぎだしている。
何度見ても、何度でも素晴らしく、丁寧に、その自分勝手で痛切な感情をうたいつづってゆく。

何度かいただけた機会の中で一回、「僕は何者だ」と虚空に問いかけるなかで、エゴンがひとすじの涙を流していた回があった。
スポットライトに照らされて光るそれをみつけてしまった瞬間、なんだかもう、本当にたまらない気持ちになった。
どこまでもどこまでも、エゴンは勝手に暴走して、勝手に自爆しているだけなのに。なのに、わかっているのにあまりにもその光景は美しかった。いつだって一緒に揺れてしまう感情が、さらにもう一段階高く揺れた。
苦しみ悶えて慟哭するエゴンの、ライトに煌く涙が千々に散って行く星くずのようだった。

あの光景を忘れたくない。
あのとき受けた感覚が、どうかいつまでもそのまま、私の中に残っていてほしい。
どうしたって遠ざかって行ってしまう一方なのがかなしくて、さみしくて、だから、少しでもわずかでも何か引き留めておきたくて。必死で、こうやって、いつだってとりとめもなく長くなってしまう筆を執りつづけて記し続けている。

・死の宣告/影による

もうすでにあの一曲でだいぶ感情はボコボコだというのに、追い打ちをかけるように死の幻影がやってくる。
「令状です」
「これは命令だ」
おまえは国民の義務を免じるに値しないのだと、突きつける一枚の書状を手にして。

ここのあみエゴンの「なにかの冗談だ!」って完全にひきつった笑いを浮かべて大変に忙しなくなるところがとても好き。
嘘だと思いたいながら、理性のどこかでわかってしまっていて、それがあの絶妙なひきつった感につながっている。のが、ちゃんと客席にまでしっかり見える。ちょっとだけ過ってしまったのは望海ヌードルス…あの、電話の、直後のマックスとの対話の中のね…。
このまま進んでいった先に、いつか、ああいうお役だったり、物語の静かな黒幕であったり。
そういうものを、彩海せらさんが任されることになる世界線があるのだろうか。
見てみたいなあ。
どんなふうに、なっていくのだろうなあ。

で、もうとんでもなくメンタルベッコベコになってるのに、これにまだ続いてハルムス家でのお茶会なのがホントにひどい。
どれだけあみエゴンのメンタルを、ろくな暗転も与えずに殴って殴って殴り続ければ気が済むのか。とっくに彼の心はクレーターの最深部でべっっっこべこである。
というかまたしても当たり前のようにあみエゴン、ずーっとハケないまま舞台上にずーっと中心で居続けるターンである。居続けながら、とんでもなく状況が、メンタルが乱高下していく。
たぶんあみちゃんにそういう小休憩は必要ないんだろうと…逆にもしかしたら感情を続けていくうえでは邪魔になるくらいなのかもとは、お、思う…。

ここまででもう「あみちゃんが全然はけない場面展開法」をすでに何度もおもしろがっている私ですが、ゆえに気になるのが、熊倉先生はどういうところから「彩海はこういう場面の割り振りにしても大丈夫」と判断して実際にやらせたんだろうか、というところだったりする。
いやでもそういえばハケない彩海せらといえば、ギャツビー新公でもあったね、そんな場面。アイスキャッスルでマイヤーと決別してからの「朝日が昇る前に」を銀橋で歌い、そこから続いて「入り江がひとつだけ」、デイジーとの場面に入る…っていう、超絶力技の場面合体がそういえばあった。
とんでもないつなぎ方したなって当時思った。そのあまりに鮮やかな表情の変化が、とても印象に残ったくだりだった。

というのを、過去の自分の狂った記録を眺めなおして思い出しました。
あの新公が、この公演に与えてる影響ってだいぶ大きい気がする。

・思っていたものと全部が違う

不本意な軍隊生活からの結婚生活、の場面。エゴンが全方向になにもかもやりたくなさそう過ぎてめちゃくちゃ好き。
何よりもエディトのなだめ方が最初っから最後までぜんぶ適当過ぎるのが、本当にナチュラルにクズで人間として最低でとてもよい。結婚指輪してるくせに!!くせにいー!!!
「遅かったのね」って抱き着いてきてくれるエディトよりも、彼女が買ってきた紙と鉛筆の方が断然大事なエゴン、ホント、ホンットクズ。
そして「不本意の日々の中でも、頼まれなければいつもと違う紙と鉛筆しか買ってこないエディト」ですよ。
一方の「頼まれなくても不本意の拘留中にいつもの紙と鉛筆を差し入れてくれるヴァリ」ですよ。
なんという残酷な対比なんだろうか。
粗雑にエディトをなだめる最中に、またそのヴァリからの手紙がやってくる構成も、あまりにも「正ヒロイン」の立て方に対する容赦がなくてたいへん良い。まのんちゃんはちょっと今回は辛抱役でしたね…。

・あなたに/きみに

生々しい不幸な結婚生活の直後に、聖なるヒロインの星がまばゆく輝く場面である。
死んでゆく兵士たちが本当に徐々に息をしなくなっていっていて、倒れたら静かになってしまっていて。そんな中を彼のおもかげを探してしまってさまようヴァリが、あまりに光り輝くヒロインで眩しかった。眩しいと思ってたら、着替えたあみエゴンが途中からスライドインしてきて渾身のデュエットを繰り広げ始めてしまい、ひえぇえ…ってなった。
またここのデュエットは、エゴンとヴァリの何もかもが、完全に、全力でハイレベルで一致している。
あなたに/きみに会いたいと、いつかどこかでもう一度だけでもと、その、切実な相手への募る想いを、劇場空間じゅうにぶつけるように、炸裂するようにふたりが呼応して歌う。
そんなにしっかりと目線を合わせるような瞬間もなかったと思うのに、何度か見た、その中の一度たりとも、ふたりの声が、ことばがズレて聞こえることはなかった。
いつだって音程が、音の長さが、そのビブラートの幅までもバチッと合っていて、もう聴いていて本当に心底から気持ちが良かった。
あと「言えはしない裏切りの日々」とエゴンが自らの手を見つめて歌うところで、毎回綺麗に結婚指輪が光る演出がグロテスクでとても好きだった。ひどい男が過ぎる・エゴン。

んでもってたいへんどうでもいいんだけど、なぜかこのデュエット聴いてると毎度、星逢一夜の「♪星逢一夜」(「あなたに会いたいこの夜だけは」)をものすごく思い出した。
あなたに会いたい、という歌詞があるし、曲調もちょっと似てたからなんだろうか。
今のあみちゃんなら紀之介ができると思う。

・何を描く/芸術のかみさま

何度見ても、あのデュエットからそのまま続いていい場面じゃないよなーって思ってた。(演者のテンションと喉のコンディション的な意味で)
でも彩海せらのエゴンにかみさまがおりるには、この場面構成が最適だったんだろうなあとも、思っている。
一度だけ、かれらに「降った」瞬間を見てしまってからは、なおさら。

一幕の拘留中のナンバーにて、エゴンは「絵画のかみさま」と、自らへ結局は手を差し伸べてくれなかった超常のものを指して歌っている。
翻ってこの場面では、かれは「芸術のかみさま 僕に力を」と歌う。
彩海せらのすがたかたちを仮りて、この舞台上のエゴン・シーレがあの「死と乙女」を完成させるには、確かに絵画だけではない、音、ダンス、ライトに場面転換、すべての、あの板の上へ乗せうる芸術の粋が必要であったと思う。
そうしてかれの願いのさきで、
死の幻影と赤いドレスのヴァリが、かれが描いてゆく線たち:線描のダンサーとともに、ひとつの「構図」をつくりあげる…。

なんでこんな宗教染みたような言い方をしたくなってしまうのかというと、一回だけ。
私が見た中では、たったいちどだけ。
ここで、彩海せらのエゴンが、おそろしい表情でわらった回があったのだ。
まるで何かに魅入られたような。ぞっとするほど、なにか人間としての奥底がぶち抜けてしまったひとみで、かれは、あのときうっそりと笑った。かれの後方で「構図」が完成した、まさに、その瞬間に。
ああ、降ったのだと。
その構図が、「死と乙女」が、かれの内側におりてきたのだと。瞬間で理解してしまって、そのあまりに常軌を逸した鈍い輝きを放つひとみが笑顔が恐ろしくて、ぞおっと背筋に怖気が走った。
こちらが思わず息すら止めてしまうような、そのまさに「しずかなる狂喜」と呼ぶにふさわしい表情から、ヴァリからの一通の手紙――彼女の死の報せを受けて、すっとすべての感情がその顔から抜け落ちる。その消失の刹那までもを含めて、あまりにも、筆舌に尽くしがたい衝撃だった。
見てはいけないものを見てしまったような。
とんでもないものを、確かに目のあたりにしてしまった、あのこが確かにかみさまをそこによんだ。彼女の底の知れなさに、改めて、戦慄せざるを得なかった。
いったい何者なんだこの子。
いまですらこんな体験を客席にさせてみせるきみは、本当に、果たしてさいごには何者になりえるのだろう、彩海せらというひとよ…。

・「賛美」

ヴァリを喪った失意の中で、死の幻影と同化する/舞台上では入れかわるエゴン。
替わった先で、「エゴン」は、今作中で初めて、美しい音に取り巻かれ、笑顔の、称賛の声を向けられる。
「素晴らしいわねえ」
「こんな画家がウィーンに埋もれていたなんて」
極めつけはここまで劇中、ずっと「絵描きであるエゴン」を否定する役割を担い続けてきた佳城さんが放つ一言だ。
「クリムト亡きあとの、後継は彼だ」
あまりにグロテスクで、思わず笑ってしまった。
むろんこの場面の「彼」はレオポルドではない。
でも、レオポルドを演じてきた佳城さんが高らかに言い放つことに、何よりも意味がある。客席の心にはぐさぐさとナイフが刺さる。そんな「反転」を起こさせるほどの評価を、確かに彼が得たのだと。彩海せらではないエゴンを見ながら、もうひとことも発しない、黒ずんだ幻影を眺めながら、何とも、複雑な心持ちになってしまう。
そこからさらにさらに、称賛の声を連ねて重ねて行って――
一つ深く嘆息したレスラーは、これ以上の「伝記」の、記載を止めてしまう。

「僕が君を書くなんて、おこがましかったね」

この絶妙な、英レスラーの語り口がとてもいい。
悲しんではいない。「書けない」とそう思ってしまった、草稿を破り捨てた己を卑下するわけでもない。
寂しんではいるのかもしれない。それこそ結局きみは誰だったのだろうと、何であったのだろうと。あのタイピングしてきた原稿を眺めながら、決して書ききれなかったその行間の「彼」の姿に、その記憶に、思ったりもしていたのかもしれない。
だからこそ、そう、「死の幻影」へと呼び掛けて。
確かに「彼が描き切らなかったもの」の、最後のピースを埋めに行くかのように、舞台いっぱいに、大きなキャンバスが広げられる。
いまいちど影と入れ替わり、彩海せらの、エゴンが舞台の上へと現れる。

・できることならもう一度 きみを描かせてくれないか

あのさああみちゃん。
なんでさいごのさいごのこの曲のこのオーラスがいっちばん声出てるの????(純粋な疑問)

この作品の中でエゴンが歌う曲は、かれらのために、確かにかれらのために作られた曲だ。
それはわかっている。本人のより得意な音域を生かして、最大限の効果を狙いに行くつくりにしているだろうことも、わかる。
わかってるよ、わかってるんだけどさ。
でも、あれだけずっと出ずっぱりで、ずっと歌って、ずっとしゃべって芝居して、踊って。
そんな本編が終わりを告げる最後、オーラスのあの曲を、いつだってほかのどの曲よりも、朗々と、びりびりと、劇場じゅうを震わせて響かせる彩海せらがいた。
いた。
いた。

……なんで????(何度見ても解明されなかった疑問)

いやなんかもう当たり前のように毎回本当に一番素晴らしい「劇場中をふるわせる歌声」を堪能させてもらっていたんだけれども、ふと我に返ってしまうと「なんで?なんでそんなんできるの???」という疑問符ばかりが頭の中にあふれかえった。
あれだけ何もかもをやりきった、最後の最後の仕上げのように、その日一番の爆音が全身をふるわせてくる。劇場の壁がにわかに心配になるような、ホール全体を自分のものとして空気を全部一緒に共鳴させるような、そんな、響き方をする。
そういうことができるようになっているのは、知っていた、つもりでいた。だってそれこそひとつ前の別箱「月の燈影」でも、彩海せらさんの次郎吉は素晴らしかったから。簡単にバウホール全体の空気を掌握し、余裕すら持って超えて見せる彼女の歌声を、もう、そこでも確かに体感はしていた。
いたはずだったのに、あんな、最後までその衝撃をよこしてくるから、結局驚いて感動して打ち震えてばかりいた。
こんな感覚を、こんなに早く、あなたから受け取れるようになるなんて。
あみちゃんを…あみちゃんと呼べなくなる日ももうそう遠くないのかもしれない…。

感想②でもさんざん語ってしまった通り、本当にここ1年ほど、特に歌に関する彩海せらさんの進化は目を瞠るものがある。
いつだって新しい声の深みが、響きが、公演が次のあたらしいものに変わってゆくごとに、出てきている。
だって実際1年すこし前、ギャツビーが大劇場で公演していた2022年の夏あたりでは、私はあみちゃんを「歌える」と称することに、まだ一抹の違和感があった。彼女の歌に対する率直な感想は「いやーまだまだ押し出しも声量も足りないなあがんばれーっ」だった…。
なのに今となってはもう、「早く大劇場を一人でぶち抜く彩海せらが見たい」と思っている。そんなふうに、変わってしまっている。
きっと、あみちゃんの個性、特性を伸ばすという意味で、とても相性が良い先生について、日々、しっかり充実したレッスンが受けられているんだろうな。
ボイスケアの仕方、日々喉を使う公演をしながら喉をいたわっていくというスキルや、そこにきっと様々あるちいさいコツなんかも、いろいろと手に入れてきているのだろうな。

なんてしみじみしていたら。
1枚の紗幕の向こう、客席へと背中を向け、エゴン一人の後姿で、無言で舞台が終わる。
たしかにこの舞台に、中心として主人公として、立ちきった、やりきった背中。ひとりたつ男の背中だった。シワひとつない、パンと張ったボックスシルエットの最後までの綺麗さ…。
「背中の演技って難しい」
「いつもよりさらに大きく、強い感情を流さないと」
なんて、過去、ギャツビー新公に際して彼女が言っていたことがつい頭によぎってしまった。
ホント絶対熊倉先生、あのギャツビー新公見てただろ…見てて、いいなと思ったから、ああいう〆方にしたんだろ…。
というのが最後の最後まで、たまらなくなって、声もないまま本編が終わりになった。

…フィナーレも長くなるので、また別に書きます。

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