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朝日は昇る、何度でも。-彩海せらさんのジェイ・ギャツビーによせて-

ようやくたった一度、一度きりの朝日を昇らせた月組「グレート・ギャツビー」新人公演。
貴重な、劇場内で拍手を届ける権利をいただき、東京宝塚劇場で見届けてきました。

緊張しすぎて事前に一切読めなかった新公パンフ

感想は。
それこそもう端的に申し上げるのであれば、

素晴らしかったわ、息が止まるほど。
――それがすべてだろう?

fff-歓喜に歌え!-より

まさにこれ。
あみちゃん、彩海せらさん、本当に、本当にとてつもなく、立派で、カッコいい、そしてこわいほどまっすぐな愛情にあふれたギャツビーさんでした。
あなたはこんなに光るのか。
知っていたつもりで、いやいや、劇中で本当に何度驚かされたか、わからない!
あまりにも素敵な、私があいたかったギャツビーさんが、
このときだけ、けれど確かに、あの舞台の上には、いたのでした。


ジェイ・ギャツビーというひと

今回の新人公演では、あまりにも、本公演とはジェイから受ける印象が違った。
といっても、最初から全部違っていた、わけではない。いやね、もうそれは無理もないんだけれど、序盤のあみちゃん、ものすごく緊張してて!
大変緊張しているなかで、「自分のギャツビー」に入っていくために、きっと血がにじむほどの努力をして自分の中に取り込んだ本役・月城さんのギャツビーをなぞっていっているような。
そんな印象が、ありました。
当日観ていたときは主に私のテンションがおかしくて(笑)ぜんぜんわからなかったのですが、後日もう一度本公演を見て、最初に「♪朝日が昇る前に」を歌う、月城ギャツビーさんの背中が見えた瞬間に笑ってしまった。
いやもう、特に序盤、本当に背中が「月城かなと」でした。
ちょっとしたときの立ち方、手の差し出し方、首の細かい角度やなんかが、ものすごい勢いで「月城かなとのジェイ・ギャツビー」だった。
あみちゃんの本役コピー能力の高さは既に知られた話だと思いますが、改めてそのスキルの凄まじさに戦慄しました。個性はそれぞれ素敵に異なっているはずなのに、なんであみちゃん、望海さんにも朝美さんにも月城さんにもなれるんだ…??

そして、そして。
なにより素晴らしかったのが「それだけではなかった」こと。

途中までのあみちゃんは上述の通り、月城さんのギャツビーを丁寧になぞりながら、細かいところにあみちゃん独自の色をにじませる、なんというか、とても「堅実」「堅牢」なお芝居をしていた。
そもそもこれは新人公演なわけで、その時点でもう十分に素晴らしい高安定だったのだけれど。
空気が一変したのが、アイス・キャッスルでの「♪アウトロー・ブルース」でした。
この豹変、あまりに面白すぎたのであとでまた個別に語りますが、それこそあみちゃんの得意分野(?)である反社が炸裂した瞬間の、あの爆発的なパワー!!
いやもう本当に笑ってしまった。明らかにこのときに、なにかがあみちゃんの中で吹っ切れた。
これ以降、あみちゃん独自の色が、それまでと比較しても、かなりたくさん見えるようになった。

本当にすてきな、圧巻の「彩海せらのジェイ・ギャツビー」でした。素晴らしかった。
さて、では、本公演とは何が違ったのか。
あくまでもいち観劇者である私の印象ですが、書き連ねていきたいと思います。


月城かなとさんのギャツビー

酸いも甘いも嚙み分けた、大人の男。
…の、はずなのだが、私は実は月城さんのギャツビーが「わからない」。
んでもって、わからない、わからなく月城さんが役作りされているのだと理解するまでに、結構な時間と観劇回数が要った。

私が最初に本公演を見たのは、ムラのようやくの再開がかなったあと、8/20のマチネだった。
たいへん、たいへん戸惑った。
なぜかというと、何度も言うけれど「分からなかったから」。なにもわからない。ギャツビーというひとが、どうしてそんなふうに声が、言葉が、感情が動くのか。なにもわからない。
特に一幕終了後の私は、正直混乱の極致にいた。
なんだこれは。なんだこれ。
なんで、どうしてこんなことに。

本当に困る。私と彼の感情線が、文脈がどうしてもつながらず読み取れないのである。
突然怒り、突然拗ね、突然シャツを投げたりするギャツビーが、理解できない珍人のように私の目には映っていた。何かとそんな印象になってしまうので、彼という人物がカッコいいとも思えず、さらに狼狽した。
落ち着いたのは、2幕になって、相対する人物が増え、「神の目」のナンバーが来たときくらいで、ようやくだ。
ここでやっと、欲しかった舞台からのパワーが来た。感情が爆発する瞬間、それも、演者が得意な水域でだけ打ち起こせる、強くて暴力的にもなるエネルギー。
全身で受けて、ようやく落ち着いて。
でも、結局、疑問は大量に残ってしまった。

どうしてこんなにわからないのか、
わからないと、思ってしまったのか。
どうして、この(「神の目」の)エネルギーを最初から発させないのか。
どうしてここに来るまで、「彼」というひとの見せ場が訪れないのか。

ジェイはデイジーを求める。求め続けている。
けれどその感覚は「今」しかなく、求めた先で、どうしていこうとしているのか、そんな未来のビジョンが見えない。
そもそも、どうしてデイジーがほしいのだ?
どうしてそんなにデイジーに惹かれているのだ?
そんなにもデイジーは「何もかも」の理由になりうる存在なのか?

わからなくて、ただただ困惑した。
しかもさらに困ることに、私はそもそも設定という意味でデイジーのようなヒロインがきらいだ。なので、(海乃さん個人の演技やスキルがどうこうという話では一切なく)デイジーがまったく魅力的に思えない。
さらには月城さんのギャツビーは、そもそも観客に自分への「理解」を、一切求めていない。
だから?
いやでもどうして?どうしてこんなにわからないのだろう。
なぜ。つまりは私の読解力が足りてないのだろうか。
なにもかも不透明で、回数を重ねても(段取りとして展開がつかめるので構えはできても)やっぱりどこかで、なにか、違った。
少しずつ深まっている、という感覚はあっても、
どうしても、私と月城さんのギャツビーは、うまくつながってくれなかった。

……だから。
私は正直、ちょっと期待していた。
違うと、つながらないと思っていた中で。
あみちゃんの「ちがう」ギャツビーが、やってきてくれることを。


彩海せらさんのギャツビー

あみちゃんのギャツビーは、決して誰のコピーでもなかった。
彩海せらが、男役・彩海せらとして創り上げた、彼女だけのジェイ・ギャツビーだった。

あみちゃんのジェイは、とにかくデイジー「だけ」に蕩けそうなほどあまく、やさしかった。
序盤、まだ緊張で声がうまく出し切れない中で、それでも「♪デイジー」のナンバーがとてもすてきだった。ときには譜面上の音符から逸脱して彼が口にする「デイジー」は、いつだっていとしいただひとりの名前だった。
彼の唯一の、愛するものの名前。
なにもかもを尽くして追い求めてきた、その、たったひとつの理由。

あみちゃんのジェイがデイジーを見つめる瞳には、常に、決して弱まることのない甘やかな恋の炎が揺らめき輝き続けている。
その目線ひとつで、何度でもきみがいとしいと告げるのだ。デイジーと相対する場を重ねるごと、声を、音を重ねるごと、ジェイは新鮮に、デイジーにまた恋をする。
そう、ふたりは歌で心の交歓をする。
あみちゃんと、今回のお相手であるきよら羽龍さんとの、声の相性が大変よかった。
そして、もちろんそれだけじゃなく、二人ともが地道で真面目なものすごい努力を、ディスカッションを続けてきたことが、ほんとうに、どこを見ていても手に取るようにわかった。

場面カットの関係で、新人公演で二人の声が初めて合わさったのは「♪時は戻らない」のナンバーでのこと。
ひたすらに強く彼女を追い求めるジェイと、その炎の高温に、否が応でも熱をかきたてられていくデイジー。少しずつ、けれど確実に、一曲の中で、デイジーとジェイが呼応していく。
「♪やり直すことは できる」
二人の4度→オクターブが重なる瞬間のふるえ。
ここでダメ押しのように思いっきりジェイがデイジーの熱をあおるので、それでも逃げるデイジーへの「次は、いつ会える」→「ジョーダンと、あなたのパーティーに行くわ」に、なんというか、ものすごく説得力があった、というか。
ふたりとも本当はもう離れたくないんだな。
キスもたいへんロマンチックでした。添える手のかたちが月城さんだったなあ…指先のやさしさは、いつも本公演でも見ている、彩海せらさんのものだったなあ…。
あみちゃんの手の表情が好き。

以降、どんなナンバーでも、溶けあうように、なだめるように、包み込むように。
そのナンバーの性質や、お互いの状況によって、いろいろと変わって、それに伴って、ジェイとデイジーの心の距離が動いていった。
そのさまが、ひとつひとつ、ほんとうにとても丁寧で、緻密で、ぜんぶ、きれいだった。
ふたりぶんの真摯が、とてもまぶしくて、耳に心地よかった。
新人公演トークを見ても、ふたりは歌で訴えようと、その紡ぎ合う音楽で、心の共鳴を得ようと努力しているようすだった。
きっとここまで、数え切れないほど、一緒に歌い合ってきたんだろう。
その成果が、着実に、うつくしく絡み合うデュエットになって、音の響きになって、明瞭に響く歌詞になって、舞台上に、きちんとあらわれていた。

……そしてそして。
あみちゃんのジェイは、同時に。
その肩書に誇りもつ、裏街道の「ギャングスタ―」だった。


ギャングスタ―・彩海せら

もうそれこそ「これ以前」と「これ以降」にあみギャツビーを切り分けたいくらい、目に見えて鮮やかな変化が出たのがモグリ酒場、アイス・キャッスルでのいち場面。
「♪アウトロー・ブルース」。
ギャングたちを従えて踊る、黒く洒落た反社ナンバーだ。あみちゃんがこういう系統の歌を歌うのをこれまで聴いたことがなかったので、さあどんな風になるんだろうと、とても楽しみにしていた場面でもあった。
おどろいた。
曲が始まった瞬間、それまで「謎のギャツビーさん」だったあみちゃんのジェイの、輪郭がドン!と濃くなったのだ。
そして不敵に、ニヒルに笑う。
何もかもを、睥睨する。
ああ、その顔知ってるぞ、それこそ本公演のこの場面で、あなたが、月城ギャツビーさんを挑発するときの…。

さあ、そして第一声。
あみちゃんの緊張が一気にほどけた、というか。
なんかもうパァン!!と、枷が弾けたようだった。

あまりにも突然、生き生きと。
見たことのない…月城さんとはまるで重ならない、彩海せらのジェイ・ギャツビーが、たのしげに躍動をはじめた。
カウンターに立って、肩先にコートをひっかけて不敵にあみギャツビーが歌う。この場面が来るまではそこまで思わなかったのに、ここでは本当にびっくりするほど、あちこちに望海風斗さんの影がにじんで見えた。
顔の角度、指先、腕の、足の使い方、歌い上げ方。
あみちゃんがずっとその背中を見てきた、学び続けてきた「ギャングスタ―」の、きっとあみちゃんの思う、カッコよさが、このナンバーにははち切れんばかりの勢いで詰め込まれていた。

彩海せらが、彼女のギャツビーがうたう。おどる。
完全にキマった所作、歌を、音楽を、自分だけの、彩海せらのオリジナルへと、楽しげに、はずみ、たゆみ、また跳ねて変えていく。
沢山の学びを続けてきた、たくさんの、偉大な先輩たちの影と一緒に躍るあみちゃんは。
あまりにも、カッコいいガンギマリの「ギャングスタ―」だった。

月城さんのギャツビーは、本質的にギャングであることに忌避的というか、どこか不思議な潔癖さというか、不本意感が見える。
一方で、いやいや。オペラでガン見しながら客席で私は笑ってしまった。
あみちゃん、あみちゃん、そうだね、いつも大好きですごい気合入ってる、バリバリに躍りまくるスーツ反社ナンバー、来たねえ!

あみちゃんのギャツビーには、「裏街道には慣れてるんだよ」に、奇妙な説得力があった。
伊達に「反社の雪組」で鍛えられてきてはいない。ついでに言うならワンス~の幻の新公で、真の黒幕役を演じてはいない…。
そして同時に、あみギャツビーには誇りが見える。
ギャングである誇り。自分の腕っぷし一本で、ここまでのし上がって来た矜持。
だからなのか、ウルフシェイムとの決別の場面の「一文無しの俺を拾ってくれたことは感謝してるよ」に、なんだかどこかふてくされたような響きがあった。あんたたちの言い分もわからなくはないが、俺にとっての「最重要」は、生憎そこじゃない、とでも言うような。
なんかちょっと一瞬だけ顔を出した豊・マルセーロみ。
なぜ。吹いた。かわいいぞ??かわいくするところじゃないぞ????


キラキラ/瞳で語る

「月組にはいなかったタイプのキラキラだよね」
「キラキラがすごい!」

月組「グレート・ギャツビー」新人公演トークpart1より

あみちゃんは、彩海せらさんは、確かにもともとキラキラギラギラできるジェンヌさんなんだけれども。
しかしそれにしたって特に組替え後からこっち、なんでそんなに「目力!」やら「キラキラ!」やら、めちゃくちゃ言われるんだろうって、正直、ちょっと疑問に思っていた。
いまさらでは?(ファンのたわごと)

……違ったわ。
これは確かに言わずにいられないわ。今回の新人公演を見て、心の底から納得した。
なぜって、あみちゃんのギャツビー。
全編にわたって、計算された瞳の輝きが、本当にものすごかった。

同トーク内で眼力がすごいという話も同時に何度か出ていたけれど、それにもまた、納得するしかない。
とにかくあみちゃんのギャツビーは、目の使い方が抜群に素晴らしかった。目をひらき、まっすぐ一点を見据えるときの眩しい星のような光りと、伏した瞳に差す翳り、面差しに入る影…。
あみギャツビーは、比較的半目というか、伏し目がちで少し斜に構えたスンとした表情をしていることが多い。そんなギャツビーが「目をひらく」とき、白目にライトが反射して、キラキラ光るのだ。
目をひらく、視線を上げる、その瞳が輝くタイミングは、全部、ちゃんと計算されている。私がいただけた席が2階S席下手側(トップにのせた写真が私の視界でした)だったので、特に銀橋でのお芝居のとき、何度も息を呑んだ。
彼女の右目に宿るひかりが、あまりに強くて美しすぎて。
本当に、星がそこにあるみたいに光っていた。ものすごい勢いでキラキラしていた。
眩しくないの?何にも見えないんじゃないの?
そんなこと、まるで微塵も感じさせずに、複数本のスポットライトを浴びる立ち姿は、いつも堂々としていた。
決して揺るがぬ、主役の姿がそこにはあった。

あみちゃんの表情が、目線が印象的だったところは本当にいくつもあるんですが。

◆「朝日が昇る前に(rep)」→「入り江がひとつだけ」

カットの都合で、とても長く、あみちゃんが銀橋上でお芝居することになった場面。
「ギャング」を捨てた・捨てさせられた・ひとつめに明確になる未来への手詰まり感に、あみギャツビーは、歌で吠える。
そして歌を終えたギャツビーが、上手側からあらわれるデイジーに名前を呼ばれた瞬間の、表情の変化。
見ましたか。
彼女だけへ向ける、やっぱり蕩けそうに甘い、刹那の安らぎを得たかのような表情、さらに愛が深まったような目の動き。けれど同時に、どこかで消しきれない未来への苦さもほろりと残っているような。
さらにはそこから始まる、ふたりの心の交歓としか言いようのない、美しいハーモニーの「入り江がひとつだけ」…。

あのあざやかな変化は、それこそ、あみちゃんのギャツビーでしか見られようもないものだった。
そもそも本公演では一度幕が下りる場面で、銀橋の芝居が、歌が続く。
えらいカットのしかただなあと思うけれど、まあ同時に、あみちゃんならそんなのを任せても大丈夫だって信頼されてるんだ…よな…それでも乱暴だった気は、するけども…。
本当にあみちゃんのギャツビーは、心の底から、なにもかも、その愚かさすらもひっくるめてデイジーを愛しているのだよなあ。
あみちゃんのジェイとおはねちゃんのデイジー、ふたりが舞台に立ち並ぶたびにその感覚が新鮮に更新されていくので、もはや、彼の感情を疑う気すら起きない。
揺らぎがない。
こちらが震えてしまうほどに。

◆「裏街道には慣れてるんだよ」

逃げるおはねデイジーを追いかけ、後ろから抱きしめるあみギャツビー。
半ば錯乱するデイジーの心ごと、存在ごと抱きしめようとするようなあみギャツビーの「大丈夫だ」の言い方、視線の包容力よ!
そりゃあデイジーもここで止まるわ…雪組Dream Timeの初回で、包容力がほしい、という話にウンウンうなずいていた人と本当に同一人物なんだろうか(笑)
あみちゃんのギャツビーが一番はっきり月城さんと違ったのは間違いなく「アウトロー・ブルース」なんだけれど、次に違ったのは、多分ここ。
もうとにかく本当に徹頭徹尾、あみちゃんのギャツビーは、愛するデイジーの未来、幸福、そういうものしか考えていない。たとえその隣に自分がいなくても、何より優先すべき……いや、もう「べき」ですらない。優先する、と、呼吸するのと同じレベルで決めてしまっている。
あみギャツビーは、その包み込むようなまなざしと声色のまま「あれは僕の車なんだ」と言う。
彼女の罪をかぶることが、そのまま彼女との今生の別れとなるだろうこともわかっていて、それでも、あまりにあっさりと口にする。
驚くデイジーに言う「裏街道には慣れてるんだよ」…妙な説得力がある。なんせあのギャングスタ―だから。「もう信じてもらえないかもしれないけど、でもあなたが好きよ」という、デイジーに、ほんの少しだけ、達成感を得たかのように、変わる表情。
で、白眉だったのは。
このあと、一度は背中を押されて歩き出したデイジーが、もう一度振り向いて、すがるようなまなざしをギャツビーへ向けるとき。
月城ギャツビーは、いつも、そこでも海乃デイジーに向かってずっと微笑み続けているのだけれど。

あみギャツビーは微笑まない。
眉間に皺を寄せて。
ひどくつらそうな、それまでの、優しい諭すような声とは裏腹の、もうこれが彼女との最後なのだと、わかってしまっているような顔をする。

その表情のまま、もう一度、かえるよう促す指先が震えている。
震え、揺れ、きちんとかたちとして彼女へ示すまでに、明確な躊躇いの空白がある。
それでも最後には、そっと微笑む。
じっと、去っていく背中を見つめる、かれの視線のなかにある愛は変わらない。変わらずにあふれかえっている、あふれつづける、デイジーへのまっすぐな、盲目的なまでの愛。

カットの都合で、なんとここからそのままジョージとの突堤の場面が続くのだけれど、また、ここも少し月城さんとあみちゃんは違う。
なにせあみちゃんのギャツビーは、最初からここで死ぬつもりでいる。ここを生きて抜けられると、端から一切思っていない。
だから、あまりにあっさりと口にする。
引鉄のワード「ああ、俺だ」を。

撃たれた瞬間の体のびくつきのリアルにこちらが戦慄し。
膝を折らず、頭から思いっきりバタンと倒れに行ったのに役者魂を感じ。
(これは1回きりの新人公演だからこそできるわざだと思う。ムラ東宝どちらか片方だけでも約1か月、合計何十回もこの場面を繰り返さなければならない月城さんが、そんなふうにしたら絶対に体がもたない)
死に顔があまりに美しいのに、変な感嘆の息が出ました。
死に顔が美しいと、思ってしまったことがそもそも衝撃でした。
そういえば月城さんの死に顔を見たことがなかったと、彼はいつも、向こう岸を向いていたのだと、ここで気づく。


前に立つ

いま、このときの中心

なんかもう当日はとにかくあみちゃんが凄すぎて衝撃がデカすぎてそんなこと考えている余裕もなかったんですが、新公ギャツビー、すごいまとまってましたよね。
それこそムラが無念の中止・これがたった一回きりの本番というのも良い方向へ作用したのかな。皆、プレッシャーを良い意味での緊張感に変えて、きちんと心が一つになっている感じがした。
敢えてひどい言葉で言えば、「外様」が、ポッと出の組替え者が、主演をかっさらった公演であるにも、かかわらず。

でもなんか、この舞台姿を見てしまうと納得せざるを得ないというか。
いや私は彩海せらさんのファンなので、相当感覚に傾斜がかかっていることは、もちろんわかってはいるのだけれども。
でも、だって、この、凄まじい、キラキラ。
ストーリーに入れ込めば入れ込むほど、体格の小柄なんてまるで気にならなくなる、圧倒的な、存在の力。
中心として立ち、物語の、ゆくべき方向を示せる力。
あみちゃんには、確かにそれがあるのだなあ。
そうやって、舞台姿で、あとはきっと、またこの短期間でものすごく痩せてしまうような(9/18に見たときと頬のコケ方が全然違ってた…)、猛烈な、自分への追い込みの姿勢を見せて。
みんなを納得させたんだろう。
あみちゃん、ああ見えて結構根っこが熱血体育会系なとこある。
燃やす焔の温度がいつだって蒼くて、高い。

もうひとつ嬉しかったこと。

「月組の彩海せらでございます」

終演後のご挨拶で。
きりりとした表情で、言い放ったその言葉に、少し、驚いた。

なぜ驚いたかというと、長長かつ主演のひとが、そこで名乗ってるのを私は聞いたことがなかったからだ。
ご挨拶で名乗るのは、主演をしたその人「だけ」。その前に全体のまとめ役として挨拶をする、いわゆる「長の期の長」は、「みんなの代表」だからか、名乗らない。
だから、名乗れないよなあ、あみちゃん。
でも、これは彼女の組替え後の初の新人公演・主演。できたら月組の~って、言ってほしいなあ、拍手したいなあとは、思っていた。

果たして彼女は、そう名乗った。
おどろいた。うれしかった。きっと、いいよって言ってもらえたんだと思った。勝手に。

深々と頭を下げたあみちゃんに、降り注いだ万雷の拍手。
一度では拍手がおさまらなくて、もう一度、あみちゃんは丁寧に客席へ礼をした。うれしかった。本当にうれしかった。この拍手は、誰よりあなたに向けられたものだ。あなたを待っていた、待ちこがれていた私たちが送れる唯一の音。弛まず努め続けたあなたへの、惜しげない称賛のひびき。
その後のご挨拶も、本当に立派だった。
なんかもう凡人には想像もつかないので何度も言ってしまうけれど、組替え直後、初めての大劇場公演で新人公演長の期の長、かつ新公主演だったあみちゃん。しかもこの不安定な情勢下、宝塚大劇場での新人公演はなくなってしまった。
恨みつらみ、無念、流した涙の数なんて本当に数え切れないほどだろう。
なのに、そんな苦しさを、あみちゃんは決して口にしなかった。涙は流していたけれど、それを何とも言わなかった。
それこそ「自分のこと」を、一切あみちゃんは言わなかった。
ご挨拶の最初に、自分の名前を名乗っただけだった。
あんまり立派で、涙が出た。

ほんとうは、配信のこととか。
これが自分たちの最後の新公、だとか。
たぶん、言わなきゃいけなかったんだろうけど、2回目のカテコでもういっぱいいっぱいになっちゃって、目にいっぱいの涙をためて、何にも言えなくなってしまうあみちゃんが愛おしかった。
涙の痕は見えるのに、増えてるのに、それでも決して崩れはしない、声も極力揺らさない。視線は常に前で、ぴしっと姿勢が正しくて。
あみちゃんてさ、カッコいいんだよね。
そういうところの、芯が本当に強いな、と、思う。

彩海せらのギャツビーは、本当に、本当に素晴らしかった。
少し弱さや脆さが見える、そのぶん、強いデイジーへの愛にあふれたギャツビーさんがいた。
たいへん残念なのは、この彩海せらのギャツビーに、ニック/トムが真っ向から相対するナンバーや場面が全部削られてしまっていたこと。ぶつかり合う相手がいないので、しかもあみちゃんのソロナンバーはほぼ全部あるので(「♪アイス・キャッスルに別れを」のみ割愛、朝日x3、デイジーx3がほぼそのまま残ってた)、とかくあみギャツビーの印象だけがぶっちぎりで残ってしまう新公になってしまった…ような気が、する。
いやー観たかったなあ、このギャツビーと抽象空間・神の目の下で必死に喧嘩する七城トム。
あみギャツビーに「きみはあいつらよりよっぽど価値のある人間だ!」と絶叫する瑠皇ニック。
言っても詮無いことなのだけれど、でも、みんな本当に全力全開で、ただ一度きりのこの舞台の上で躍動していたから、全身全霊を賭けていたから、素敵だった、からこそ。

でも、それでも素晴らしかった。
この舞台が、記録にも、記憶にも残って、本当に良かった。
改めて、彩海せらさん、月組102期のみなさん。
新人公演、卒業おめでとう。


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