11年前を、ふと振り返ってみた。

元日本代表DF内田篤人さん(32)が24日、引退会見を行った。鹿島で07年からリーグ3連覇。10年夏に移籍したシャルケでは主力としてCL4強進出を果たし、日本代表の主軸として躍動した。一見するとエリート街道を歩みながら、現役終盤は故障に苦しんだ。端正なルックスの裏には「我慢」と「涙」があった。

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 あれだけ我慢強い選手が、自分の今に我慢できなくなったのかな…。引退が発表された時、勝手にそう解釈した。09年、リーグ3連覇達成の年に鹿島担当を務めた。内田さんと接して感じたのは、優れた技術やセンスはもちろんのこと、何よりも胸に秘めた「仕事」への強烈な責任感と、それを支えた我慢強さ。それをもってしても、右膝の故障によって生じた心と体のギャップを埋めることは難しかったのだろう。

 プロ生活4年目の09年シーズンは、内田さんにとって苦しい1年だった。4月のACL1次リーグ、うだるような暑さのアウェー、シンガポールAF戦で異変が生じた。試合途中に突然立ち止まり、うつむき、初めて試合中に嘔吐した。

 原因不明の嘔吐症状は試合のたびに生じた。1試合に1、2度ならまだしも、前半を通じて吐き続けることもあった。9月26日のホーム名古屋戦を1●4で落とした直後の控室では、「プロ4年で一番悪かった」という自らの不甲斐ないプレーぶりに人目をはばからず涙した。

 悪いことは重なり、9月には試合中に右膝を負傷。「(小笠原)満男さんも膝が痛いのにやっている。我慢してプレーした」。ただ、2カ月間にわたり痛みが引かず、検査を受けると半月板を損傷していた。

 でも、休まなかった。ピッチには常に内田さんがいた。「鹿島は勝たないといけないチームだから」。そして何より、体を削って勝利のために戦っている先輩たちの背中を見て育ったから。鹿島でプレーする、レギュラーを張る意味を若くして理解していたからこそ、ピッチに立ち続けた。

 迎えた12月5日、敵地浦和戦で3連覇を成し遂げると、1年を通じて体調不良の内田さんに声をかけ続けてくれた「お父さんみたい」というオリベイラ監督に肩を抱かれ、ただただ泣いた。「不安で不安で仕方なかったけど、前向きになれなかった自分がいたけど、今の苦しみはチャンスだって前向きに考えられるようになってきた」。1つの壁を乗り越えた実感があったのか、そう振り返った。

 さらに、優勝時に一言、記してもらおうと色紙を渡すと、「今年はこれしかないかな」と微笑み、「我慢」と書いた。その1年だけでなく、選手生活を表すかのような2文字だった。


 「仕事」への責任感と我慢強さは生来のものだとは思うが、鹿島という環境で一層強くたくましく育った気がする。勝利への執着心、勝利へ逆算してプレーできる賢さも。鹿島の駐車場で、海外移籍した後は日本代表の取材エリアで、しばしば口にするのは「俺は鹿島で育ったからね」という自負を込めた言葉だった。

 あれから11年。内田さんは若手ではなくなり、ベテランの域に入った。鹿島復帰後はコンディション的に、練習でも試合でも100%ではなく、故障を避けるため、自分を押さえながら、できる限りの強度でプレーせざるを得なかった。それが「鹿島育ち」として培った価値観からすると我慢ならなかったのだろう。若手時代に背中を追い続けたベテランの姿と、自分の今を比べて、見えたものがあったのかもしれない。

 あれだけ気高く、我慢強い選手が下した決断だからこそ、思う。

 鹿島に復帰した後、故障と向き合い苦しみながら、プロとしての姿勢、鹿島の選手としての姿勢、生き様を言葉で、背中で示してきた。内田さん自身がどう感じているかは分からないが、間違いなく、その思いは後輩たちに刻まれ、引き継がれていくはずだ、と。

#内田篤人 #鹿島アントラーズ #我慢 #右サイドバック

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