見出し画像

美術界隈

 とかく日本のおよそ多くの美術愛好家という人達が触れたがるのは欧米の美術、アートである。
 一方で、今現在進行形にこの日本国内でうごめいている無名作家達の動きなどはまるで気にしなくても結構だ、というのがそれらの人達の不文律に違いない。誰かが声を確かに上げるまでは黙っている悪癖が身に付いている(snsは別の話)。
 勿論、現在活動中の作家達(自分も含め)のモノが「美術」「芸術」に足るものかという大問題は別にあるにしても、常に無名の者達が未来を創っていくという摂理には目をつむっていられるらしい。

 ――少し惨めな言い方になった。しかしそれなりに幾つかの美術団体展に関わってきた中で、上野の都美館や国立新美術館(六本木)に詰めて受付の担当になると、そこではやっぱり一般的な日本人及び自称アート好きの、有名物に対する盲目的な寵愛嗜好を嫌でも目にする事になる。
 一般的にはピンとも来ないであろう美術団体展(ピンとこさせないのは画壇の悪いところだ)には無料でも見向きもせずに素通りし、隣でやっている有名企画展へはたとえ良い作品を持って来ていなくても安くない代金を払って長い行列までつくり、それがさも当たり前だという顔をして続々と入っていく。いわばもう既に確立され出来上がったモノに対する安心感が、まるでその人達には美術や芸術なのだと思考停止で刷り込まれている様だ。そのガチガチな無意識が芸術と正反対だとは夢にも思っていない。
 多くの日本人は有名なモノにはとことん弱い。そうしてもう既に確立された権威やら価値観にはわけなく自然と隷属出来る。それが無意識的だから根が深い。あるいはこういうのも多元的無知と言うのだろうか。

 「日本は、日本人は――」と自分は言った。それでは他国、とりわけ芸術の揺籃ヨーロッパではどうなのか、少し私見を交えて例えを出してみよう。
ある時、自分はロンドンで開催されたアートフェアに出品していた。そこはかつて自分が暮らしていた頃もロンドン市中の中でヒップなエリアで、10年振りでもそれは変わらない様子であった。その通りにはカフェやレストラン、パブが連なり、老若男女、いかにも英国人らしく寒いのに痩せ我慢して店外のチェアに腰掛けてコーヒーなんかを飲んでいる。その通りを自分は自分の絵を引き取りに一人歩いた。
 勿論東洋人一人がその通りを歩いたって彼等はこちらを一瞥しただけでうんともすんとも思わない。しかし絵を引き取った帰り、自分はわざと自分の絵を彼等に見せる様にして片腕に抱え歩いた。すると先程は見向きもしなかった彼等から声が掛かる。
「それはアナタが描いたの?素敵よ」
「ちょっと見せてくれないか?――良いドローイングだ!いや、嘘なんかじゃない、家に飾りたいよ」
「この先にサーチギャラリーがある。ああ、知っているか。そこへ売り込むってのはどうだ!」
 それはこちらに無関心だった先程の彼等とは打って変わった態度だ。しかし何者でもない自分に向けられたそれらの言葉が、異邦人の自分の心を鼓舞してくれるには充分だ。自分はかつてこの街の美術学校に居た時の事を思い出した――その学校のスタジオ外の屋根裏の様な場所で自分が絵を描いていると、すぐ隣の建物のおばさんが窓越しに良く自分の絵を見ては色々な意見を言ってくれた。まるで当てずっぽうで見当外れな意見もあったけれど、最後にはいつもこう言ってくれた。
「――I like it though(でも、良いわよ)」
 これらはARTという概念に対する日本人と欧州人の姿勢と価値観の差異だ。絵や、あるいは音楽といった制作そのものに対して彼等は非常に敬意を持っている。しかしここで重要なのが、その敬意というものが創作活動に向けられている事で、作品に対してではないという事だ。制作物に対しては彼等は結構適当に何でも私見を述べる。日本人の様に、自分には良く分からないから黙っておこう、等といういじらしい謙虚さはない。
 もう一つの例を出してみよう。あれは1995年頃の古い話だ。自分は当時ニュージーランドのオークランドという街に暮らしていた。そこで出会った一人が前年パリから戻ったという画家崩れだった。その彼が自分に訊いた。――日本では一体どんなアートが好まれているんだ?
 その問いに自分は少し照れ臭く、印象派の幾人かの名前を出した。すると彼は大袈裟に驚いて見せて、吐き捨てる様にこう言った。
「それは100年も前のアートだ」
 その時当時の自分は、パリで成功出来ずに帰国した一人のニュージーランド人に何かの怨嗟を見た気がしたけれど、それはともかく、今なら彼の言ったその言葉が良く分かる気がする。
 彼等は「今起こっている事」「これから起こるかもしれない事」に価値を見出すし、日本人は「既に起こった事」に価値を見出す。それは美術の事ばかりではない様に感じる。そのどちらが良いのかはわからないが、少なくともcreativityというものには見えない未来を見ようとする熱が必要だ。

 と、ここまでは(日本の)鑑賞者という受け手の方にばかり瑕疵がある様なもの言いになったけれど、実のところ自分は個人的にはこういった状況にそれほど苛立ちがあるわけではない。そういうものだと思っている。
 結局、ただ黙っていれば忘れていくだけのいくつかの思い出話がしたかっただけなのかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?