終戦の日、国家と民間人

私が生まれたのは1958年、終戦から僅か13年と言う事になります。

父の兄、母の兄とも戦死していますが、身近な大人達は戦争についてあまり多くを語らなかった気がします。

仏壇に置かれた軍服姿の遺影、勲章、額装された国からの表彰状などを見た覚えはありますがさほど興味を持てる存在ではありませんでした。

テレビでは零戦のパイロットが主人公のドラマなど戦争物も観ていた記憶がありますが両親は咎める事も賞賛する事もありませんでした。

それでも思い返せば、祖母や叔父、両親の語った戦時中の話の断片の話の幾つかが自分の考えに少なからず影響を与えていると感じます。

我々世代の多くが当時の食料事情を引き合いに出され、食べ物を大切にする様に言われた経験があるのでは無いかと思います。
スイトン、それはまだ良い方で木の根などを食べた話も聞きました。

我が家にも戦時が現在の日常とどれだけ掛け離れていたのかを示すエピソードがあります。

母の兄たちは徴兵され、長男は戦死、彼は出征前に結婚していましたが戦死、未亡人となった叔母は次男と再婚しました。
この叔父夫婦には大変良くしてもらったと記憶しています。

徴兵前に終戦を迎えた父は、中学生くらいの年齢の頃、軍需工場で24時間眠らずに働く為に覚醒剤?が支給されたと話した事があります。

今回書いておきたい話のメインは母方の祖母から直接聞いたエピソードです。 

母の実家は桶屋さんという職業を営んでいました。
おけ、たらい、浴槽などが木製の時代、母の実家に行くと離れに桶作りの作業場があり、その木の香りと作業工程を見るのは一つの楽しみでもありました。

小さな品物などは祖母が直接配達していました。子供の頃、届け先で出されるお菓子目当てに何度か祖母の付き添いをしました。

祖母と親しい同年代の女性宅に出かけた時の事を今でも覚えています。
普段は明るい祖母が、その方と話しながら泣いた日がありました。

今思えばその日は終戦記念日だったのかも知れません。

その時、祖母は戦死した息子、母の兄の事を語りました。

当時、徴兵はお国の為に働ける!と言った具合で本人にも家族にも名誉である!とされたのは有名な話です。

もし徴兵に抗うなら、その家族は権力だけで無く近所の人たちから非国民と謗られ酷い仕打ちを受けたそうです。

母の兄は出征の際、国の為で無く祖母と幼い母を守る為である旨を祖母に話したそうです。

祖母と共に泣いていた相手の方も、おそらく同じ様に息子さんを失ったのだと思います。

民間人とは誰の事でしょう?

広島、長崎、各地の大空襲を例にあげるまでも無く戦争は必ずと言って良いほど民間人が犠牲になります。
現在もロシア、ウクライナ、パレスチナで起こっている様に。

その度に民間人を犠牲にする国家に対して大きな非難があるわけです。
それは当然、許される事ではありません。

しかし祖母の話が本当なら徴兵された兵士の多くもまた民間人です。

そして直接の敵は、平時には平和に付き合いの出来た極身近にいる周囲の人達でもあったわけです。

善良な人々も極限状態に追い込まれた際には家族や極身近な人を守る為に豹変する事になります。背に腹はかえられぬ!と言う事です。
故に人間をそこまで追い込む事自体が悪だとも言えます。

民間人を徴兵し同族でさえ合法的?に虐殺する権利を有するのが国家だと言う事を戦争体験した世代の多くは感じたのではないでしょうか。

少なくとも叔父たちは国家の為で無く、その生まれ育った風土と家族を守る為に戦地に赴かざるを得なかったのだと思います。

どこの国が敵なのかを単純にに考える事は当然ですが出来ません。

どんな国でも国民の100パーセントが他国の人全員を殺したい!と本気で望むとは到底思えないからです。

日本人の中にも様々な人が居るように。

国民の生命と財産を守る事が国家の役割であり、その為に国民の生命と財産を奪う権利を有するのもまた国家と言う不思議な図式は私の頭では到底理解不能です。

どこの国の英霊と呼ばれる人達も武器を持たされた民間人であり、多くは生まれ育った風土、或いは故郷、家族の為に殺し合う事を強いられたと考える事にしています。

誰に何によって強いられたのか?

コロナ禍と呼ばれた日々、親達の感じた脅威の本の数パーセントかも知れない脅威の片鱗を見た気がします。










































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