見出し画像

あれは別の選択をした世界の私なのではないか

罪を犯した人が実は精神疾患を持っていた。ニュースでそういった情報が入るたび、私はそれが「今とは別の選択をした世界の私なのではないか」と思う。

もう失うものが何もない人が起こす事件を見るたびに、これは違う選択を選ばざるを得なかった自分の姿だ、と悲しくなる。
限られた選択肢の中から「最悪」より多少マシなものを選び続けて、そうして最後に突きつけられた選択肢は一体どんなものだったのか。

ときに人は自分の力ではどうすることもできない状況に置かれることがあって、他人からすれば荒唐無稽なことが、そのときその人が選ぶことができる唯一の選択肢だと、そう信じ込むことがある。実際に、そうなのかもしれない。

私はたまたま今は平穏な日々を過ごせているけど、なにかが少しずつ狂いはじめて、だんだん崖っぷちに追い詰められて、失うものがなくなって、社会に恨みが向かって、そして凶行に及んでしまう可能性は大いにあると思っている。
それだけに、精神疾患と共に生きてきた人が起こす事件には、言葉にしがたい気持ちが込み上がって、喉の奥が痛くなって苦しくなる。瞬きのたびに涙が滲んできて、やるせない。

私と同じニュースを見る誰かは、厳しい言葉で犯人を糾弾しているかもしれない。精神疾患は免罪符にはならないと思う人もいるだろう。どんな事情があれ、法に触れてしまったらもうだめなのだと。

犯人を糾弾する人はけっして自分を犯人とは重ねない。
精神疾患とともに生きる人を悪くは言わないが怖い存在だと感じ、法に触れる人は "事情" はあるにせよ悪人である。
そういう人の中に紛れて、私のような存在は「その人は別の選択肢を選ばざるを得なかった私だ」とつぶやいている。ニュースに映る私。

私は生まれたときに配られた運のないカードを切りながら日々を過ごしている。イカサマしなければこの世から早々に退場していただろう場面も多い。
前向きな一言を残してこの文章を終えたいが、それさえできない、やるせなさがある。

いただいたサポートは飼い猫たちのご飯やおもちゃへ生まれ変わります。