見出し画像

私が「教育」をおこなう理由をまとめてみた②

Facebookのタイムラインで流れてきた、かの話題のカリスマ校長先生、工藤勇一さん主催の「学校をよくするために教育について工藤勇一と本気で語る会(本気で語る会)」(仮称)に応募した時のエントリーシートを公開していっています。

前回は、1章を公開しました。


今回はそのシートの2章の部分を公開します。

以下が、概要

 「よりよい学校をつくりたい」という強い思いを持って日々努力している教育関係者は全国にたくさんいます。そうした方々を支援すべく、講演や出版、SNS等の形など、私なりの方法でこれまで活動をしてきましたが、今回は、新たな取り組みとして、先生自身が直面している課題とその解決に向けた戦略について、共に検討することができる実効性のある支援の場を作っていきたいと考えています。
そこで「学校の当たり前をやめた」の編集を担当してくださった時事通信出版局の坂本建一郎部長と共に施行的にではありますが、このような会を立ち上げることとしました。
学校のあり方が変われば社会が変わり、世界が変わります。
日本の学校の最大の問題は、関わる人々の当事者意識が失われていること、そして、多くの教育活動において、手段が目的化していることです。
誰一人置き去りにすることなく、皆がOKといえる社会を実現するためには、日本全国の学校で、最上位目標に向けて対話と合意形成をする経験を重ねて、社会を創る経験を重ねることが大切です。
そのことに本気で取り組み広めることのできる教員を増やしたいと思っています。
私たちなどの支援では十分なことはできないかもしれませんが、共に日本の教育、大袈裟に言えば世界の教育をよくしたいと熱い思いを持っている方がいらっしゃれば、一緒に語り合ってみませんか。【開設の目的】
●工藤勇一が全国各地の学校改革を進めるエンジンとなるような先生を支援・応援する。
★この会は、学校を変えていく取り組みを広めるための試行的・実験的なものです。
★あくまでも個人で立ち、個人でしっかりと学校づくりに向かえる方々の支援・応援をする場として構想します。
【期間】2021年10月頃から約1年程度。
●月に1~2回、テーマに沿った議論、ケースメソッドの検討などを行う。会の活動時間は参加者の方々と相談して決定します。(平日夜または土日など)すべてオンラインを用いて開催する。
【参加対象】教職経験10年以上の30代から40代の教職員
●学校を良くするために教育について本気で語ることが目的のため、教職経験を一定程度持ち、今後、学校を引っ張っていくリーダー層に限定します。
●また、有志で運営することを想定しているため、受け身ではなく能動的に関わってくださる方を求めます。

2章は、「教育に対する課題意識」について。自分自身の原点はやはり大学生の時の活動が起点となっているなと感じます。それは、自分自身がずっと大好きなことに打ち込めていたという環境が当たり前に存在していたことに気付いたことが大きかったんだと思います。

やりたくても、できない。できる環境にない。そもそもそういった選択肢が出てこない環境にある人も世界には多くいる一方で、そういったできる環境にあるがゆえに、失われてしまっていることも多くあり、それが教育における役割な気がしています。(長くなった。)


2. 教育に対する課題意識
 1.で述べさせていただいたように、不公正な現実があり、拡大する貧困や経済格差により、社会的排除がおこっている現状に大きな課題意識を持っています。日本国内を見ていくと、性的マイノリティ、シングルマザー、非正規雇用者等、国内での格差が広がり、そこから生まれる偏見や差別的扱い、社会における無意識の分断など社会的排除の状況は看過できません。そうした中で、子どもの自殺者の増加や、自己肯定感の低さという「心の貧困」に私は特に課題意識を感じています。


 現代の日本社会の中で明日の食べ物に困る、明日の着ていく服がないなどの基本的生活が脅かされている状況下の人はとても少ないと思います。ほとんどの人が一応は、何か食べて(もちろん親の状況で、朝ごはん食べることができていない子も多い)、服を着て学校に行ったり、仕事にいったりと基本的な生活をすることは比較的達成できているかと思います。また、世界で見ると日本の教育レベルや就学率などはもちろん先進国においてもトプレベルであり、こうした側面からみると、教育としては成功していると思います。
しかし、将来への希望や、やりたい仕事を持っている子ども、自分自身のことを大切だと感じたり、自分自身を好きと思える子どもたちは、逆に言うと先進国の中でも低く、人間関係や学校でのいじめなどによって多くの若者や子どもが自ら命を絶っています。

学校に行くと、テストのためや成績のために知識を覚えて、大学に受かるために勉強し大学に入る。大学では特に学びたいものも、やりたいこともないけれど単位はとってバイトしたり友人と遊んですごす。やりたいことがあまりみつからず就職するため就職活動を行い、とりあえず行けそうな、入れそうな企業に就職していく。
もちろんこの人生が悪いわけではないですが、果たして、人間として幸福なのでしょうか。
 なぜ、自分がこの勉強をするのか、なぜこの勉強が必要なのか、なぜ学ぶのか、なぜ自分は生きていくのか、自分にとっての幸せとは何なのか。こうした問いについて教育は応えることができているでしょうか。
実は私自身も同じような経験をしてきました。小中高と学校では成績トップで、部活動でのキャプテンを務め大学も行きたい大学を自分で選び進んできたつもりでした。しかし、サッカーに行き詰まったときに、改めて自分が何をこれからして生きていきたいのか。本来の自分は何がしたいのか、とても悩みました。


 こうしたことかたら、教育に対する課題意識の1つとして、自分自身の感性や多様な経験、自分自身の将来や希望を育んだり、自分の気持ちや感じていることについて知ることがあまりにも不足していることが挙げられます。学習が「よい評価をえるため」「先生や親に認められるため」の手段にすり替わってしまって、自分自身の成長や視野の広がり、自分自身や社会を知り自分らしく幸せに生きていくための手段として教育を受けれていなかったことが大きな課題だったと感じています。


 また、そうした背景には、2つ目の課題として、「学びの主体性の喪失」があると思います。先生から児童生徒へ、教科書の内容を「大人の都合」で教えていくスタイルが中心の学校教育スタイルの中では、本来の学習の姿である「学習者が環境に働き掛けて能動的に自らが気づき、学ぶこと」が起きにくく、学びへの当事者性がとても低いものになります。そうすると、学習は他律的なものになり、その場しのぎや暗記といった方向へと学びが矮小化していくことになります。本来の学習において、教えることは必要なプロセスではありますが、内容や状況、学習対象者により方法はより多様になるべきであり、それが、学習者自身の主体的な学びであることで初めて知識理解が深まるものと思います。


 3つ目の課題として、児童生徒の学校・教室での当事者性の希薄さです。教室や学校というのは、子どもが家族以外で最初に関わる大きな「社会」となっています。戦後、日本国が民主主義の国である以上、学校の果たすべき役割の一つは、この民主的な国家の新しい担い手となることであり、そうしたものは、いわゆる「大人」になってから、いきなり担い手になるのではなく、しっかりと学校や地域の中でこうした民主的生活や自治を行うことが必要です。しかし、学校には大人の都合で、大人が管理したいがため、管理型のシステム、同質性を求めルールがあらかじめたくさん決められており、教室には、担任教師の権威性が発揮され、子ども達はそれらの「言うことをきくこと」が求められており、きけない子は排除や負のレッテルを貼られてしまうことにつながります。


 また、4つ目の課題として、こうした学校教育における、システム的なエラー、学力優先での一方向的な授業に違和感を抱え、自己矛盾と学校矛盾をはらんだまま組織や個人が教育活動を、将来を担う子どもたちにしていることです。学校が幸せになる手段や自分の生き方を見つけていく場所ならば、そこで子どもたちと関わる教師が幸せでない状態で、果たして子どもたちは健全に育つのでしょうか。


================

次回へ続く。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?