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030\\\《自分と自分以外》を結ぶ『壁トレ』という練習。

この世の中は、ふたつのもので成立しています。それは、自分と他者。自分と自分以外のもの。たとえ親子であっても、夫婦であっても親友同士であっても、婚約者であっても信頼できる仲間であっても、自分以外はすべて「他者」であり「外の者」と見ます。

いつどうなって、どう変わるか、知れたものではありません。逆に、それまでは気が合わないとか考えが違うからと感じながら、距離を置いていた人々が、実は自分と共有同調できる人であったことが分かることもあることですが、しかしそれでも、その人も「他者」であり「外の者」であることは変わりません。

このように、この世の中は、《自分と自分以外》のもので成り立っています。

そんな世の中で安全に生きてゆくためには《自分と自分以外》の関係を、どうしても固い結びつきにしておかないとなりません。それでいろいろな難解な規則を作ったり、裏切った者に対してのいろいろな厳しい怖いルールなどを作ったりして行動をしているわけです。とにかく、結束連帯感が命なのですから。


『壁トレ』は、自分の呼吸法の強化のために始めた自分オリジナルなトレーニング法でした。(※『壁トレ』についての詳しいことは 026\\\に書いてあります)

自分の呼吸が壁の中に入っていったり、逆に、壁の中から自分の出した呼吸を引き抜いてみたりと、自分と壁の中との「呼吸コミュニケーション」を感じてゆくトレーニングをしています。これが『壁トレ』です。

これによって、「壁」という、本来はそこで行き止まりになるものに対して自分の呼吸を通じさせてゆくということに「可能性」を感じてゆけるものになりますし、ヒーリングエネルギーを練るためにもなります。


このような、自分ひとりで出来る変わった練習法をぼくはいろいろ持っています。この『壁トレ』は、始めは手のひらで壁を触れながらおこなっていました。手のひらの触覚に乗せて自分の呼吸を壁の中に浸透させてゆくのが基本となっています。

それをだんだん、「目の前の空気」を「壁」として代用してみたり、見ている映像や画像を「壁」として使ってみたり、触覚でおこなっていたことを視覚で出来るようにもなってきました。

音楽や声をも「壁」として感じ取り、触覚から聴覚でも感じられるようになったりしてきました。長い間こんなことをやっていますと、用いる五感の中に「五感の相互性」を感じるようになってきたのです。

このように『壁トレ』とは、本来そこで行き止まりになっている「壁」に対して「一体になる」ための技法として使えるようになってきたわけです。


始めの頃は、このように、壁・映像・画像・空気、風景、などが『壁トレ』の「パートナー」でした。しかしこれがだんだん「人・人間・人間関係・人間関係の世の中」のことまでも『壁トレ』で感じ取れるようになってきますと、今まであまり見なかったモノやコトにまで敏感になってゆくものです。

たかが「壁」を相手に『壁トレ』としてやっていた呼吸法トレーニングが、いつの間にか感じ取れる範囲が広がって来てしまったわけです。と同時に《自分と自分以外》のことについても、とても敏感になってきます。

そうすると、《自分と自分以外》との間にある、明確な「境界線(つまり壁ですが)」の存在に関して敏感になってくるものです。やはり、自分と他者とは、越えられない壁で出来ていて、その間の「境界線(壁)」はとてもぶ厚いものなのだと。

『壁トレ』で呼吸法を練ってゆくことで「自分の呼吸」で「壁」をすり抜けるような感じになりながらも、しかし同時に「もっと厚い壁」も見えて来てしまうものです。

丸いオーラがいいね■定番画像

『壁トレ』という練習をしてゆきますと、「壁」は「境界線」ではありながらも、そこで「行き止まり」という認識ではないことに気づきます。それは『壁トレ』で呼吸のトレーニングしてゆきますと、自分の呼吸が壁の中に入っていったり、壁の中から引き抜いたりという、壁の中との行き来が出来るような感覚を得られてくるからです。

ぼくにとって『壁トレ』とは、「壁」という境界線を感じながらも、その境界線を呼吸法によって出入り出来るのだということを感じられたということはつまり、境界線があるおかげで、逆に、《自分と自分以外》を同時に見れるようになれたわけです。

自分の中に《同時二重性》を取り入れれば、壁は壁でなくなり、壁はむしろ「出入りするドア」のように開かれたものにも見えてくるものです。

自分の意識の中に《自分と自分以外》を同時に入れてしまえば、『自分』の中に《自分と自分以外》のふたつが存在するようになります。まるで二色ゴハン弁当のようです(同時二重性のことです)。

《同時二重性》は、これは「呼吸法」ではなく「意識トレーニング」に属します。それで、意識のカラダと肉体のカラダに分離させてみたりしてきたわけです。


《自分と自分以外》というと、どうしても「自分と他者」と考えてしまいますが、究極的には「この世とあの世」のことにも通じます。そうなると、宗教の世界になってしまいますね。

宗教は、どのようなナニ教であってもナニ流であっても、ほとんどが「何かと向かい合ってそれとひとつになる儀式」をスタイルとして持っています。

神と向かい合う。ホトケと向かい合う。自分と自分以外の人々(仲間同士で)と向かい合う。生と死を向かい合わせる。コチラとアチラ・この世とあの世を向かい合わせる。そうやって、何かと向かい合って「一体」になれたとき、その人のところにありがたいナニカがやって来るのでしょう。

ぼくは、これは『壁トレ』と原理的に似ているのではないか?と感じたのです。ぼく自身は宗教に対しては深くは入ってはゆきませんが、自分にとっての「生きる」は、やはり「呼吸法」ですから、世の中にいろいろと「壁」として感じる障害物を乗り越える技法としての『壁トレ』を、日々楽しんでいるというわけです。


「自分と他者(始めに書きましたように肉親でも愛する人であっても他者としてあつかいます)」の間には必ず「壁」があります。それもいつどうなるか分からない「壁」ですが、まわりを見渡せばこの世のすべてが「壁」であることにも気が付きます。

『壁トレ』ですべての「壁」を出入り出来るものかどうか分かりませんが、逆に、「壁」として感じられるからこそ、『壁トレ』で一体感を求めることが出来るわけです。

楽しい映像や画像を見ながらでも、ぼくは『壁トレ』で「壁」の中に入っていったり呼び寄せてみたりして楽しんでいます。映像や画像の中で見える人に対して『壁トレ』をしていると不思議な一体感を感じて見たり、逆に反発要素を感じてみたりと、視覚だけでは分からない情報を体感できます。

公園の樹と向かい合っていると、樹のエネルギーが入ってきたり、こちらからも入っていったりとということを(主観体験として)楽しんだりしています。特に神社にある樹との同調は素晴らしいものです。


もう、『壁トレ』についていろいろ書いていますと、際限がありません。なにしろこの世はすべてが「壁」であり、生きるには「壁」が付いてまわります。この世で重宝されているいろいろなものは、いかに「壁」を乗り越えるために必要なものか? を売り込むようなものばかりです。

「壁」の向こうのアチラは、あの世です。なんとか、生きてゆくに「壁」のコチラにいるためのいろいろが必要ですものね(笑)

最後に『壁トレ』とは、どうなれば素晴らしい『壁トレ』になれるのか? ということだけ書かせてください。それは、「壁」というものがだんだん薄らいできて、コチラとアチラの境界線がぼやけてくることであります。それって? どういうことか、考えてみてくださいな。 では~*

★呼 吸 法 ワ ン ダ ー ラ ン ド///★

つづく


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