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「ある閉ざされた雪の山荘で」を見て思ったこと


映画のネタバレを含みます

映画「ある閉ざされた雪の山荘で」を見た。何カ所かの日常的な会話が自然かつ狙いすぎていなくて好みだったことを除くと、特に好きな部分のない映画だった。

一緒に鑑賞したミステリー好きの彼女は、
「きっと原作はおもしろいはずだ。原作を読もうか。期待してこの映画を見たことが悔しい。」と憤怒していた。

悔しいの意味はいまいちわからなかったが、自分も期待はずれな作品だったので、あのキャラの行動はおかしいであるとか、演出が安っぽいといった会話をしながら帰り道を歩く。

交通事故で下半身不随になったシーンの話に差し掛かった時、私は否定的な意見を述べるつもりだった。だが、いざ話し出すと思ってもみない言葉を紡ぐ自分がいた。

「最初は事故の原因となったの3人はくそ野郎だと思った。自分が許されたいから謝ってるようにしか見えない。自己中でしかない。相手の為を思うなら、姿すら見せるべきではないって思った。
 でも、そもそも3人は本当に気にかけて被害者の家を訪れたのだと思う。彼女の絶望感を察することができずに、喧嘩になってしまった。帰り道で3人になってから、馬鹿にして笑っていた。でも、あいつはどうせ帰ってくるよというセリフにそれまでの関係性が見えた気がした。そして、謝る為に電話を掛けた。
 それが悲惨な事故につながる訳だが、あれはあくまでも事故なんだよ。イラっとした時の小さな悪意や、しょうもないプライドからくるマウントが招いた結果であって、現状を望んだ人はあの中に一人もいない。相手を想う気持ち、一緒に過ごした時間があるからこそ起きてしまった事故なんだ。
 ふと、自分はどうだと考えた。自分の身にも似たようなことや、より悲惨な何かが起こってもおかしくないと思った。
 その時自分はどうするか考えたら、眠気が飛んだ。そこからラストまではいろいろ考えながら見た。」

100%の悪者はいない。みんなそれぞれ少しだけ嫌な部分を持っている。それが悲劇を生みだしてしまうことがある。誰にだってその可能性はある。

後から考えたら、新しい視点もない、多くの作品に当てはまってしまうありふれた感想だ。それでも、人から聞いて共感する事と、作品から直接感じる事とでは体験として大きく異る。好きな映画とは言えないが、自分の中に残る映画となった。

例えば私が高校生の時に見ていたら同じ感想にはならなかっただろう。もしかしたら大好きな映画になっていたかもしれない。
何がどう影響するかはわからない。
だからこそ、ふいに心が動かされた時に、私は映画が好きだと改めて実感する。

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